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「祇園祭」は、7月1日から1ヵ月にわたって行われる八坂神社の祭礼。 7月1日の「吉符入」からはじまり、31日の八坂神社境内摂社・疫神社の「夏越祭」で幕を閉じます。 上賀茂神社と下鴨神社の葵祭 ・ 平安神宮の時代祭とともに京都三大祭の一つ。 |
=祇園祭のはじまり= |
863年(貞観5年)、京都で疫病が流行した際、神泉苑では「御霊会」が行われます。 しかし、その後も疫病の流行が収まらなかったことから、869年(貞観11年)6月14日、人々は神泉苑に当時の国の数である「66」の矛を立て、神輿3基を送って、牛頭天王(祇園神)を祀る御霊会を執り行いました。 それが「祇園祭」の始まりと伝えられ、970年(安和3年)には官祭として行われるようになりました。 室町時代になると、町衆による山鉾巡行が始められ、徐々に現在のような形に整えられていったようです。 |
当時、天変や疫病の発生は、戦などによって非業の死を遂げた者の怨霊の所業とされていました。 この怨霊を鎮めるための祭事が「御霊会」。 |
上御霊神社 |
下御霊神社 |
怨霊を鎮撫することによって、それが禍を終息させる「御霊」として崇められるようになり、上御霊神社や下御霊神社といった御霊を祀る神社が建立されます。 |
今宮神社 |
北野天満宮 |
今宮神社は、都に疫病が流行した際、二基の神輿を船岡山に安置して「紫野御霊会」 を営んだことに始まります。 北野天満宮は、讒言により大宰府に左遷され、都に帰らぬまま亡くなった菅原道真を祀る神社。 毎年8月の北野祭には、延暦寺の僧による御霊会が盛り込まれていたそうです。 |
=祇園祭という名称= |
明治の神仏分離までの「八坂神社」は、「祇園社」と呼ばれる牛頭天王を祀る社でした。 そのため祭礼も「祇園御霊会」と呼ばれていました。 牛頭天皇は仏教の聖地「祇園精舎」(インド)の守護神で、日本ではスサノオノミコトと習合し、薬師如来を本地とされて信仰されてきました。 しかし、明治に入って神仏分離令が出されると、「祇園社」は「八坂神社」に改称され、祭礼名も「祇園御霊会」から「祇園祭」に改称されています。 |
祇園祭のハイライトとなるのは、17日の前祭と24日の後祭。 山鉾巡行はユネスコの無形文化遺産です。 |
前祭(7月17日) |
23基の山鉾が市内中心部を巡行する「山鉾巡行」と、「神輿渡御」(神幸祭)が行われます。 |
前祭巡行の先頭を行くのは長刀鉾。 現在も生稚児を乗せる唯一の鉾。 鉾先の長刀の下に飾られているのは、和泉小次郎親衡(泉親衡)の像。 天井板には、安倍晴明で知られる陰陽道の28の星座が施されている。 祇園祭の長刀鉾と泉親衡 |
山鉾は、999年(長保元年)の祇園御霊会で雑芸者の無骨が大嘗祭で使われる標山に似せた作山を製作したことが起源なのだとか。 無骨は、藤原道長に捕縛命令を出されるが・・・ |
無骨の山鉾を禁止した藤原道長と祇園天神の怒り |
先祭の舁山の一つ保昌山の御神体は、丹後守・平井保昌。 緋縅の鎧に太刀をつけ、紅梅を捧げる姿で、保昌と和泉式部の恋にまつわる伝説がテーマとなっています。 |
和泉式部に恋した平井保昌の伝説 |
7月17日、八坂神社を出発した三基の神輿は、7月24日の還幸祭までここに留まります。 |
後祭(7月24日) |
10基の山鉾巡行、花傘巡行、神輿の還御祭が行われます。 清少納言は『枕草子』に、「心ちよげなるもの」として、「御霊会の馬長」・「御霊会のふりはた取り持たる者」を挙げています。 花傘巡行では馬長稚児が奉仕します。 |
心ちよげなるもの 御霊会の馬長〜清少納言の『枕草子』と祇園祭〜 |
山鉾巡行は、町内を清めるために行われるもの。 集められた疫神が四散しないように、巡行が終わるとすぐに解体されるのだそうです。 |
笹の葉で作られた厄病・災難除けのお守り。 牛頭天王(須佐之男命)と蘇民将来の伝説が残されたお守りです。 |
八坂神社の本殿の下には「龍穴」と呼ばれる井戸があって、神泉苑と通じているのだといいます。 |
祇園祭の期間のみ開放される井戸。 |
中央の六角は素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、右の四角は櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、左の八角は八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)の輿。 |
梛神社は元祇園社と呼ばれ、社伝では神霊を八坂に遷祀して八坂神社が創建されたのだといいます。 また、遷祀の際に、風流傘を立て、鉾を振って、楽を奏しながら神輿を送ったことが祇園祭の起源と伝えています。 |
室町時代から江戸時代にかけて、六角堂(頂法寺)では山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が行われていた。 |
京都市東山区祇園町北側625 JR京都駅から市内循環バス 「祇園」下車すぐ。 |
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