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「祇園さん」と親しまれている祇園八坂神社。 平安以前の656年(斉明天皇2年)の創建と伝えられている。 もとは、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王を祭神としていたことから、「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたが、明治の神仏分離によって「八坂神社」と改められた。 現在の祭神は、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)。 京都三大祭の一つ「祇園祭」は八坂神社の例祭。 上の写真は西楼門。 四条通と東大路に面しているこの楼門が表門のようだが、実は南楼門が表門となる。 |
本殿の下には大きな龍穴と呼ばれる井戸があり、神泉苑・東寺・御手洗井と繋がっているのだという。 2022年(令和4年)から、神泉苑の閼伽水と八坂神社の青龍水を交換する「御神水交換式」が始められ、交換された神水は祇園祭の神事に供されている。 青龍神水は、大神宮社前の祇園神水を汲んだもの。 閼伽水は、善女龍王社の閼伽井から汲み上げられたもの。 |
現在の本殿は、四代将軍徳川家綱が1654年(承応3年)に建立したものだが、平安時代の建築の空間構成を伝え、中世の信仰儀礼と建物の関係をよく示している建物。 文化審議会は、2020年(令和2年)10月16日、八坂神社本殿を国宝とする答申をした。 |
南楼門 |
疫神社 |
北向蛭子社 (祇園えべっさん) |
大国主社 (縁結びの神) |
祇園神水 (大神宮社前) |
悪王子社 |
美容水 (美御前社) |
忠盛の燈籠 |
文化審議会は、2020年(令和2年)10月16日、既に重要文化財に指定されている蛭子社本殿・西楼門・石鳥居の3件3棟に、以下の26棟の社殿群を追加する答申をした。 疫神社本殿・悪王子社本殿・美御前社本殿・国主社本殿・玉光稲荷社本殿・日吉社本殿・太田社本殿・大年社本殿・十社本殿・五社本殿・冠者殿社本殿・四条旅所本殿(2棟)・大政所社本殿・又旅社本殿・舞殿・神饌所・透塀・神馬舎・神輿庫・絵馬堂・西手水舎・南手水舎・西楼門翼廊(2棟)・南楼門 。 |
1147年(久安3年)6月、平清盛は宿願成就の田楽を奉納するため八坂社を訪れた。 しかし、清盛の郎党が武装していたため、社内に入ることを制止されたことから、乱闘となってしまう。 この事件で八坂社の僧数人が負傷した。 清盛の父忠盛は、事の重大さに下手人七人を院庁に差し出したが、それだけでは収まらず、延暦寺から訴えられる事件へと発展し、忠盛・清盛父子の流罪を要求する強訴が行われた。 このとき忠盛・清盛父子は、鳥羽法皇の庇護によって流罪を免れている。 ※当時の八坂神社は、比叡山延暦寺の末寺だった。 |
「祇園祭」は、当初は「祇園御霊会」と呼ばれていた。 863年(貞観5年)に疫病が流行した際、神泉苑では「御霊会」が行われるが、その後も疫病の流行が続いたことから、869年(貞観11年)、当時の国の数「66」の矛を立てて、八坂神社から神泉苑へと行列したことが「祇園祭」の始まりと伝えられる。 本殿の下には「龍穴」と呼ばれる井戸があって、神泉苑と通じているのだという。 |
神泉苑 |
御手洗井 |
御手洗井は、祇園祭宵々山の7月15日から還幸祭の7月24日まで開放される。 |
御旅所 |
神輿 |
冠者殿社 |
梛神社 元祇園社 |
梛神社は元祇園社と呼ばれ、神霊を八坂に遷祀して八坂神社が創建されたのだという説がある。 |
999年(長保元年)の祇園御霊会で、雑芸者の無骨が大嘗祭で使われる標山に似せた作山を製作し、八坂社の社頭で引き回した。 左大臣・藤原道長は禁止令を出したが、祇園天神の怒りに遭い、平安宮の内裏が焼失してしまったのだとか・・・ この出来事が、現在の山鉾の起源なのだという。 |
無骨の山鉾を禁止した藤原道長と祇園天神の怒り |
笹の葉で作られた厄病・災難除けのお守り。 牛頭天王(須佐之男命)と蘇民将来の伝説が残されたお守りです。 |
京都市東山区祇園町北側625 JR京都駅から市内循環バス 「祇園」下車すぐ。 |
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