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後白河天皇は、第77代天皇。 1127年(大治2年)9月11日、鳥羽天皇の第四皇子として誕生。 母は藤原璋子(待賢門院)。 1155年(久寿2年)7月、異母弟の近衛天皇が崩御すると、自身の第一皇子・守仁親王(二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして29歳で即位。 |
高松神明神社は、源高明の高松殿に勧請された社。 後白河天皇は、高松殿で即位したのだという。 |
1156年(保元元年)7月、鳥羽法皇が崩御。 その後、皇位継承問題と摂関家の内紛から起こった保元の乱に勝利。 保元の乱は、源義朝と平清盛が中央政界に進出するきっかけとなった。 1158年(保元3年)、二条天皇に譲位して院政を開始するが、翌1159年(平治元年)、後白河院政派と二条親政派が対立し、さらに院内部でも信西と藤原信頼が対立。 藤原信頼は源義朝が結びついて平治の乱を引き起こし、信西を殺害して政権を掌握したが、二条親政派の平清盛に敗れ、後白河院政派は壊滅した。 乱後は、平清盛が実権を握る形で院政が進められることとなる。 |
崇徳上皇は保元の乱で後白河天皇に敗れて讃岐に配流となり、京に戻ることなく1164年(長寛2年)8月26日崩御(64歳)。 安井金毘羅宮の北側にある崇徳天皇御廟は、寵愛をうけた阿波内侍が遺髪を譲り受けて築いた塚。 |
三条東殿遺址は、平治の乱勃発の地。 |
平治の乱に敗れた源義朝は、東国へ逃れる途中の尾張国野間で家臣の裏切りに遭い暗殺された。 子の頼朝は捕らえられ伊豆国に流されている。 |
1161年(永暦2年) |
平治の乱で院御所の三条殿が焼失してしまったため、法住寺殿を造営して院政の拠点とする。 法住寺殿内には、延暦寺の鎮守社の日吉社を勧請して新日吉社を建立、信仰していた熊野三山からは熊野神社を勧請して新熊野社を建立している。 |
新日吉神宮 |
新熊野神社 |
1164年(長寛2年) |
1164年(長寛2年)、法住寺殿の一画に平清盛に資材協力を命じて蓮華王院を創建。 |
三十三間堂は、蓮華王院の本堂で、堂内には1001体の「木造千手観音立像」が安置されている。 |
1165年(永万元年)7月28日 |
二条天皇が崩御。 前月に病気となり六条天皇に譲位していた。 二条天皇の崩御により、これまで政治の舞台から排除されていた後白河院政派が息を吹き返すことになる。 |
1167年(仁安2年)2月11日 |
平清盛が太政大臣に。 |
1168年(仁安3年)2月19日 |
六条天皇から高倉天皇へ譲位。 高倉天皇の母は平滋子(平清盛の妻時子の妹)。 |
1168年(仁安3年) |
平清盛が出家し、福原に別荘を造営して退隠。 |
1169年(仁安3年)6月17日 |
法住寺殿で出家し法皇となる。 出家の戒師は園城寺の覚忠。 |
1170年(嘉応2年)7月20日 |
東大寺の戒壇院で平清盛とともに受戒。 |
1171年(承安元年)12月14日 |
平清盛の娘徳子が入内し、翌1172年(承安2年)2月10日に中宮となる。 |
1173年(承安3年)4月29日 |
神護寺再興の勧進を要求した文覚を伊豆国に流す。 |
1173年(承安3年)10月21日 |
法住寺殿に寵妃平滋子(建春門院)の御堂最勝光院が完成。 最勝光院は、平等院をモデルにしたともいわれる。 |
1174年(承安4年)3月16日 |
平滋子(建春門院)を伴って安芸国の厳島神社を参詣。 |
1176年(安元2年)3月4日〜6日 |
法住寺殿で50歳の祝いの宴会が催される。 宴には平滋子・高倉天皇・平徳子・統子内親王・守覚法親王・関白・大臣・公卿・平家一門が出席している。 |
※ | 統子内親王は賀茂斎院を奉仕した鳥羽上皇の第二皇女(参考:葵祭)。 |
※ | 守覚法親王は後白河法皇の子で仁和寺第六世門跡。 |
1176年(安元2年)7月8日 |
平滋子(建春門院)が崩御(35歳)。 平清盛をはじめとする平家一門との調整役だった滋子の死によって、高倉天皇を擁する平家一門と後白河院を擁する院近臣勢力の対立が表面化していく。 |
※ | 後白河法皇と平清盛は、高倉天皇を擁立することでは一致していたが、人事については対立していた。 |
1177年(安元3年)6月 |
京都東山鹿ヶ谷の俊寛(後白河法皇の側近)の山荘で、藤原成親、西光、俊寛らが集まって平家打倒の謀議をこらしたという事件が発覚(鹿ヶ谷の陰謀)。 西光は捕らえられて斬首、藤原成親は配流、他の院近臣も一網打尽にされた。 |
※ | この事件は平清盛のでっちあげだとする説がある。 |
1179年(治承3年)11月20日 |
平清盛のクーデタにより鳥羽殿に幽閉され、後白河院政が停止される(治承三年の政変)。 この頃から高階栄子(丹後局)が近侍する。 |
平清盛のクーデターと以仁王の令旨 |
1180年(治承4年)2月21日 |
高倉天皇が安徳天皇に譲位。 安徳天皇の母は平徳子(平清盛の娘)。 |
1180年(治承4年)3月 |
高倉上皇が平清盛の強請により厳島神社を参拝。 これまでの例をやぶって最初の社参を平家に縁の深い厳島にしたことで、園城寺・延暦寺・興福寺の大衆が平家から離反するきっかけとなった。 |
※ | 上皇の最初の参詣は、石清水八幡宮・賀茂社・春日社・日吉社のいずれかで行うことが慣例だった。 |
1180年(治承4年)4月9日 |
以仁王(後白河法皇の第二皇子)が源頼政と謀って、全国の源氏に平家打倒の令旨を発する。 令旨は、伊豆国に流されていた源頼朝にも届けられている(4月27日)。 |
1180年(治承4年)5月26日 |
以仁王と源頼政が平等院の戦いで討死。 |
1180年(治承4年)6月2日 |
安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇が福原に遷幸(福原遷都)。 |
1180年(治承4年)8月17日 |
伊豆国で源頼朝が挙兵。 同時期、信濃の木曽義仲、甲斐の武田信義らも挙兵。 |
1180年(治承4年)10月7日 |
源頼朝が鎌倉を本拠とする。 |
1180年(治承4年)10月20日 |
平維盛を大将とする平家軍が富士川の戦いで敗走。 |
1180年(治承4年)11月23日 |
福原から安徳天皇・後白河法皇をはじめ平家一門が京都に帰る(還都)。 |
※ | この頃、園城寺・延暦寺・興福寺などの反平家の寺社勢力の動きが活発になっていた。 |
延暦寺 |
園城寺 |
1180年(治承4年)12月28日 |
平重衡の南都焼討で東大寺・興福寺が灰燼に帰す。 |
※ | 南都焼討の半月ほど前、重衡は園城寺も焼き払っている。 |
東大寺 |
興福寺 |
1181年(治承5年)1月14日 |
高倉上皇が崩御(19歳) |
1181年(治承5年)閏2月4日 |
平清盛が死去(64歳)。 |
平清盛の死 |
平清盛の墓所 (神戸市) |
清盛塚 (神戸市) |
能福寺には平清盛の廟所が復興されている。 清盛塚は、清盛の供養塔。 |
1182年(寿永元年) |
神泉苑に白拍子100人を呼んで「雨乞いの舞」を舞わる。 |
神泉苑 |
静の舞 |
神泉苑は雨乞いの霊場。 99人までが舞っても雨は降らなかったが、100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたのだという。 |
養和の飢饉と源頼朝 |
1183年(寿永2年)5月11日 |
平維盛を総大将と平家軍が木曽義仲に敗れる(倶利伽羅峠の戦い)。 |
1183年(寿永2年)7月25日 |
平宗盛をはじめとする平家一門が安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちる。 7月28日、入れ替わるように木曽義仲が入京。 |
※ | 平宗盛は、安徳天皇を法住寺殿に行幸させようとしたが、後白河法皇が比叡山に避難してしまったことで都落ちを決意したのだという。 |
平清経が奪った後白河法皇の御剣「鵜丸」と「吠丸」 |
1183年(寿永2年)10月14日 |
東国における源頼朝の支配権を承認(寿永二年十月宣旨)。 |
※ | この頃、後白河法皇と木曽義仲は対立関係にあり、法皇は頼朝に上洛を促している。 |
木曽義仲入京と寿永二年十月宣旨 |
1183年(寿永2年)11月19日 |
木曽義仲が法住寺殿を焼討ち(法住寺合戦)。 |
法住寺の身代わり不動明王は、後白河法皇の身代わりになったと伝えられている。 |
法住寺合戦後、後白河法皇は六条西洞院の長講堂(六条殿)に移っている。 |
1184年(寿永3年)1月20日 |
源範頼・源義経が木曽義仲を追討。 入洛した範頼と義経は、河越重頼・河越重房(重頼の子)・佐々木高綱・畠山重忠・渋谷重国・梶原景季を従えて後白河法皇が幽閉されていた六条殿に参じて護衛にあたっている。 |
1184年(寿永3年)1月26日 |
平宗盛追討の宣旨を下す。 |
1184年(寿永3年)2月7日 |
一ノ谷に拠る平家軍が源範頼・源義経に攻められて敗走。 |
※ | 2月6日、後白河法皇は平宗盛に和平協議の手紙を送っているらしい。 |
後白河法皇の謀略か?〜平宗盛の手紙〜 |
1184年(元暦元年)7月28日 |
後鳥羽天皇が即位(安徳天皇が退位しないままの即位)。 |
※ | 後鳥羽天皇の即位は、神器なき即位であり、安徳天皇が退位しないままの即位だった。 |
※ | 後白河法皇に後鳥羽天皇の即位を薦めたのは丹後局だったとされる。 |
1184年(元暦元年)8月6日 |
源義経を検非違使・左衛門少尉に任じる。 義経の無断任官 |
※ | 一ノ谷の戦い後、源範頼は鎌倉へ帰還し、源義経は京都の治安維持にあたっていた。 |
1184年(元暦元年)8月 |
平家残党の反乱を源義経が鎮圧(三日平氏の乱)。 |
1185年(元暦2年)2月19日 |
屋島に拠る平家軍を源義経が奇襲して敗走させる。 |
1185年(元暦2年)3月24日 |
壇ノ浦で平家滅亡。 |
赤間神宮 |
安徳天皇陵 |
赤間神宮は壇ノ浦の戦いで平家一門とともに入水した安徳天皇を祀る社。 |
壇ノ浦の戦いと三種の神器と頼朝・範頼・義経 |
1185年(文治元年)8月12日 |
平治の乱で平清盛に敗れ、尾張国で暗殺された源義朝の髑髏(しゃれこうべ)を見つけ出させ、鎌倉の源頼朝へ送る。 |
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために創建。 後白河法皇から送られた義朝の髑髏は勝長寿院に葬られた。 |
1185年(文治元年)8月28日 |
東大寺の大仏の開眼供養のため東大寺に御幸。 |
平重衡の南都焼討で灰燼に帰した東大寺は、後白河法皇の支援の下で重源が再興事業を開始。 開眼供養では後白河法皇自らが開眼の筆をとった。 |
1185年(文治元年)10月18日 |
源義経と源行家に源頼朝追討の宣旨を下す。 |
※ | 壇ノ浦の戦い後、頼朝は義経を追放している。 |
源義経と源行家の謀反 |
1185年(文治元年)10月29日 |
源頼朝が義経討伐のため出陣。 |
1185年(文治元年)11月3日 |
源義経が都落ち。 11月6日には、摂津国大物浦で難破して、吉野山へ逃れるが、そこから先の行方は不明となる。 |
※ | 逃亡生活を続けた義経は、1187年(文治3年)、奥州平泉の藤原秀衡を頼っている。 |
源義経を匿った比叡山の僧兵 源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘 |
1185年(文治元年)11月11日 |
義経に入れ替わるようにして京都に東国軍が入り、頼朝の怒りが伝えられると・・・ 畿内近国の国司に義経と行家を探し出すよう院宣を下す。 |
日本第一の大天狗:後白河法皇 |
1185年(文治元年)11月29日 |
源頼朝の義経追捕のための守護・地頭の設置要求を認める(文治の勅許)。 |
義経逃亡と守護・地頭の設置 |
1188年(文治4年)2月・11月 |
藤原泰衡に義経追討宣旨を下す。 |
1189年(文治5年)閏4月30日 |
藤原泰衡に攻められた源義経が衣川館で自刃。 |
1189年(文治5年)7月から9月 |
源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす(奥州征伐)。 |
1190年(建久元年)11月20日 |
上洛した源頼朝を右近衛大将に任命。 |
1191年(建久2年) |
源頼朝が法住寺殿を修造。 指揮をとったのは大江広元・中原親能・昌寛。 |
後白河法皇の院御所「法住寺殿」の再建 |
1192年(建久3年)3月13日 |
崩御(66歳)。 |
後白河法皇が崩御すると、法住寺殿の一画には法華堂が建てられ御陵となった。 かつては後白河法皇に寵愛された妃・建春門院滋子の法華堂と並んでいたのだという。 |
法住寺は、藤原為光によって創建された寺院で、後白河法皇の法住寺殿は、この寺を中心に営まれていた。 江戸時代まで後白河法皇の御陵を守る寺として存続したが、明治に入って寺と御陵が分離されている。 |
源頼朝が営んだ後白河法皇の法要 |
子どもの頃から今様という歌謡を好んだ後白河法皇は、歌謡集『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)を撰した。 |
鎌倉の鶴岡八幡宮の宝物「籬菊螺鈿蒔絵硯箱」(まがきにきくらでんまきえすずりばこ)は、源頼朝が後白河法皇から下賜され、北条政子が化粧道具入れとして愛用したものと伝えられている。 |
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