|
1183年(寿永2年)7月、木曽義仲に攻められ、安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし、九州へ落ち延びた平家一門。 徐々に勢力を挽回しつつあったが、1184年(寿永3年)2月7日、一の谷の戦いで源範頼と源義経を大将とする鎌倉軍に敗北。 ただ、本拠地の伊賀・伊勢には、都落ちに同行しなかった平信兼をはじめとする家人が勢力をはっていた。 一の谷の戦い後、範頼は鎌倉に帰ったが、源頼朝は義経を治安維持のため京都に駐留させ、3月20日に大内惟義を伊賀国の守護とし、3月22日には、伊勢平氏征伐のため大井実春を伊勢国へ派遣している。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 7月3日、源頼朝は、平家追討のため源義経を西海(九州方面)へ派遣することとするが・・・ 7月5日、大内惟義の使者が鎌倉に到着し、6月7日に伊賀国で平家残党が反乱を起こし、襲撃を受けた惟義の家人の多くが殺害されたと報告された。 これに対して頼朝は、7月18日、平家残党を全滅させるよう、大内惟義・加藤景員・加藤景廉・山内経俊らに命じている。 8月2日の大内惟義からの伝令では、7月19日に合戦となり、富田家助・家能・家清・平家継を討ち取ったが、平信兼とその子息、上総忠清らは逃亡し、佐々木秀義が討ち取られた。 この合戦で反乱はほぼ鎮圧されたが、頼朝は8月3日、義経に反乱の首謀者である平信兼とその子息を探し出して誅殺するよう命じている。 そして、8月10日、義経は平信兼の子の兼衡・信衡・兼時を呼び寄せて宿所で誅殺。 その後、義経は信兼討伐に出撃したとされ、『吾妻鏡』にはその記録はないが、『源平盛衰記』によると、義経は伊勢国滝野の城に立て籠もった信兼を攻めて討ち取ったのだという。 9月9日、信兼の京都の家地は、義経の管理下に置かれている。 |
※ | 兼衡・信衡・兼時が何故、義経の招きに応じたのかは不明。 |
※ | 兼衡・信衡・兼時は、頼朝が挙兵時に討ち取った山木兼隆の兄弟。 |
※ | 逃亡した上総忠清は、壇ノ浦の戦い後に捕えられて処刑されている。 子の忠光と景清は頼朝暗殺を企てたとして知れ、忠光の子は頼朝亡き後に伊賀・伊勢で反乱を起こす(こちらも三日平氏の乱と呼ばれる。)。 |
※ | 平家残党に討たれた佐々木秀義は、頼朝の挙兵で活躍した佐々木四兄弟の父。 |
平信兼追討の中の8月6日、義経は左衛門少尉に任官され、検非違使の宣旨を受けている。 『吾妻鏡』は、義経が頼朝に無断で任官したことで平家追討から外されたと伝えているが、近年の研究では、京都の治安維持のためには義経が必要であり、義経の出陣には、後白河法皇や貴族らの強い反対があったためという説が有力となっている。 義経の無断任官 |
|