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鎌倉七口の一つ仮粧坂には、源頼朝の暗殺を企てた平氏の侍大将平景清が幽閉されていたという牢跡(景清窟)が残され、「水鑑景清大居士」と刻まれた碑が建てられている。 勇猛な武将だったという景清には、屋島の戦いで三保谷十郎の兜の錣(しころ)を引きちぎったという逸話が残されている。 壇ノ浦での敗戦後には、自分を匿ってくれた叔父の大日房能忍を殺害したことから「悪七兵衛」と呼ばれるようになった。 1195年(建久6年)、源頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛すると、景清は頼朝を暗殺しようとして、東大寺の転害門に隠れていたという伝説が残されている。 石清水八幡宮に参拝した頼朝を狙ったとも伝えられている(景清塚)。 |
※ | 景清は、近松門左衛門の浄瑠璃『出世景清』などに描かれ、これらの作品は「景清物」と呼ばれている。 |
1690年(元禄3年)、鎌倉を訪れて『鎌倉紀行』という詩集を作った京都の戸田幹が記しているところによると、やぐらには景清をつないでいた鎖の穴があったのだという。 |
頼朝暗殺を企てた平景清の伝説 景清錣引伝説〜屋島古戦場〜 |
一般的に景清は「平姓」で呼ばれているが、それは平氏の都落ちに従ったためで、本当の姓は「藤原」。 父藤原忠清は、伊勢国に基盤をおいた藤原秀郷流伊藤氏の出身で、平氏の有力な家人だった。 1184年(元暦元年)、「一ノ谷の合戦」後、東国軍の主力が鎌倉に帰還すると、伊賀・伊勢で大規模な反乱を起こしている(三日平氏の乱)。 壇ノ浦の戦い後に捕らえられ、八田知家に預けられて断食して果てたという説や、六条河原で斬首されたという説があるが、謎の多い人物で各地に伝説が残されている。 |
『吾妻鏡』によれば、景清の兄忠光は、1192年(建久3年)正月21日、永福寺の建設現場に人夫として紛れ込み、源頼朝を暗殺しようとしたが捕らえられ、2月24日、武蔵国六浦で斬首された。 源頼朝暗殺計画:上総五郎兵尉忠光。 |
「景清窟」の下には、「向陽庵大悲堂碑」が建てられている。 景清の娘人丸姫は、捕えられた父に会うため京都より鎌倉に下ってきたが会うことはできなかった。 景清の死後、尼となった人丸姫は、景清が幽閉されていた石牢の上に、景清の守本尊(十一面観音像)を祀ったのだという。 それが向陽庵。 数年後に亡くなった人丸姫は、扇ヶ谷に葬られ、そこは「人丸塚」と呼ばれていたというが、その塚もいつしか崩され、現在は安養院に預けられている(安養院の人丸塚)。 向陽庵に祀られていた十一面観音像は海蔵寺にある。 碑文は、1762年(宝暦元年)に鎌倉を遊覧した儒者・伊東藍田(らいでん)が書いたものだという。 碑が建てられたのは1765年(明和2年)。 |
向陽庵の十一面観音は、江戸時代に旧鎌倉郡に設定された「鎌倉郡三十三箇所」の札所の一つだった。 |
平景清が源頼朝暗殺を企てたという伝説は、東大寺、石清水八幡宮のほか、清水寺の随求堂や朝倉堂、六波羅蜜寺の阿古屋塚にも残されている。 |
東大寺大仏殿 |
転害門 (東大寺) |
景清爪形観音 (清水寺) |
景清塚 (石清水八幡宮) |
阿古屋塚 (六波羅蜜寺) |
頼朝暗殺を企てた平景清の伝説 景清錣引伝説〜屋島古戦場〜 |
仮粧坂 |
海蔵寺 |
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