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平家の侍大将・平景清と美尾屋十郎廣徳の一騎打ちが行われた所。 逃げる十郎の兜を景清が熊手で引っかけ、兜の錣(しころ)を引きちぎったのだとか・・・ 『平家物語』によると・・・ 那須与一の扇の的を射落とす妙技に感動した平家方の老武者が、船上に出てきて舞を舞うが、義経の命を受けた与一は、この老武者を射殺してしまう。 雪辱を晴らそうと平家の三人の武者が渚に上がり、源氏方からは五騎の武者が進み出る。 真っ先に進み出た源氏方の美尾屋十郎廣徳。 馬が射られると徒歩立ちで平家の武士に切りかかる。 そこへ現れたのが大長刀をもった平景清。 かなわないと思って逃げる廣徳。 それを追いかける景清は、廣徳の錣をつかみ、それを引きちぎったのだという。 「この頃は噂にも聞こえているだろう。今は目でも見たまえ。これこそ京童が呼ぶ上総の悪七兵衛景清よ」 景清は、こう言い捨てて戻っていったのだとか。 これに気をよくした平家。 二百余人が渚に上がり源氏を挑発。 これに対して源氏は、源義経をはじめとする八十余騎が駆け散らすが・・・ 義経が弓を落としてしまう・・・ |
平景清は、壇ノ浦の戦い後「悪七兵衛」と呼ばれ、1195年(建久6年)、源頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛すると、頼朝を暗殺しようとして、東大寺の転害門に隠れていたという。 石清水八幡宮に参拝した頼朝を狙ったとも。 一般的に景清は「平姓」で呼ばれているが、それは平家の都落ちに従ったためで、本当の姓は「藤原」。 「俵藤太」と呼ばれた藤原秀郷の子孫なのだとか。 |
景清窟 (鎌倉) |
東大寺大仏殿 |
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