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滋賀県大津市の瀬田川に架かる橋。 京都の宇治橋、山崎橋と並ぶ日本三古橋の一つ。 日本の道100選。 近江八景の一つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」としても知られている。 現在の橋は、1979年(昭和54年)に架け替えられたもの。 緩やかな反りや旧橋の擬宝珠など往時の姿をとどめている。 いつ架けられた橋なのかは不明だが、神功皇后(200年代)の時代にはあったのだという。 |
かつては、「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋だった。 1184年(寿永3年)1月20日、源頼朝が木曽義仲を追討する際には、源範頼が瀬田から、源義経が宇治から京へ入り、義仲を粟津で滅ぼしている。 1221年(承久3年)の承久の乱では、北条時房が瀬田橋で朝廷軍との合戦に勝利し、京都に進軍した。 |
1572年(元亀3年)10月、上洛するため甲府の躑躅ヶ崎館を出陣した武田信玄。 12月には三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、翌年、三河に侵攻。 しかし、病に倒れ、4月に入って甲府へ撤退。 その途中の信濃国伊那谷で死去(53歳)。 臨終の際に・・・ 「山県昌景は瀬田橋に風林火山の旗を立てよ」と命じたのだと伝えられている。 |
伝説によると・・・ その昔、近江国の瀬田の唐橋には大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れないでいた。 そこに通りかかったのが俵藤太秀郷(藤原秀郷)。 秀郷は66メートルもある大蛇の背を踏み越えていったのだという。 すると、大蛇は爺さんの姿に変えて秀郷の前に現れた。 爺さんが秀郷に言うには・・・ 「大ムカデが現われて、琵琶湖の魚を食いつくし、人々が大変困っております。 凶暴なムカデのため退治することもできず・・・ 私が大蛇に化けて勇気ある豪傑を待っていたのです・・・」 大ムカデ退治を引き受けた秀郷。 秀郷が大ムカデの眉間を矢で貫くと、大ムカデは消え去った。 爺さんにもてなされた秀郷は、一生食べきれないほどの米俵を褒美に受け取り、以後「俵藤太」と呼ばれるようになったのだとか・・・ 爺さんは琵琶湖に住む龍神だった。 |
1195年(建久6年)2月14日、東大寺大仏殿の落慶供養参列のため鎌倉を発った源頼朝。 3月4日には、『平治物語』で源義経が元服したと伝えられる近江国の鏡の宿を出発したが・・・ 馬を進めて瀬田橋まで来ると、橋の向こうに比叡山の僧兵たちが群集していた。 橋の東側で馬を止めた頼朝は挨拶すべきどうか考えていたが、しばらくして、橘公業を呼んで僧兵たちのもとへ説明に行かせた。 公業は僧兵たちの前にひざまづいて、 「鎌倉の将軍が、東大寺大仏殿の落慶供養参列のため上洛するところですが、この集まりはどのようなことなのでしょうか。 将軍は不安を感じています。 ただ、武士の作法としては、このような所で下馬の礼を尽くすことはいたしません。 したがって、乗馬のまま通りますので、咎めだてのないように」 と伝えます。 その返事を聞く前に、頼朝は馬を進め、僧兵たちの前で弓を取り直して少し厳しい顔をすると、僧兵たちは頭を下げたのだとか。 |
建部大社は、唐橋から500メートルほどの場所に鎮座する近江国一之宮。 夏祭り「船幸祭」では、神輿を乗せた船団が瀬田川を行き交い、唐橋に近付くころになると夜空に花火が打ち上げられる。 |
京阪電鉄石山坂本線 「唐橋前駅」下車 徒歩 5分 |
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