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1193年(建久4年)、源頼朝に謀反の疑いをかけられた源範頼は、修禅寺(信功院)に幽閉され、その後、梶原景時に攻められ自刃したのだと伝えられている。 |
源範頼は、源頼朝の異母弟。 誕生は1150年(久安6年)頃。 母は遠江国池田宿の遊女だったといわれている。 遠江国蒲御厨(現在の浜松市)で生まれ育ったことから蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれた。 1159年(平治元年)の平治の乱後、藤原範季に養育され、その一字をとり「範頼」と名乗る。 一説によると、武蔵国比企郡の安楽寺に逃げ込み、頼朝の乳母を務めた比企尼をはじめとする比企一族に庇護されていたともいわれる。 源平合戦(治承・寿永の乱)では、源義経とともに木曽義仲の追討・一ノ谷の戦い・壇ノ浦の戦いで活躍。 しかし、1193年(建久4年)5月28日、頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に起こった曽我兄弟の仇討ちをきっかけに失脚してしまう(参考:相模の武将:曽我兄弟)。 『保暦間記』によれば・・・ 曽我兄弟の仇討ち事件で頼朝は無事だったが、鎌倉には「頼朝も討たれた」という誤報が伝わる。 心配する北条政子に対して範頼は「私がいるから心配ない」と言ったのだという。 しかし、この言動が頼朝から謀反の疑いをかけられてしまう。 『吾妻鏡』によれば・・・ 8月2日、範頼は疑いを晴らすため、頼朝に起請文を提出するが、起請文の署名に「源範頼」と記してしまう。 この事に頼朝は「源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」といって激怒したという。 さらに、8月10日には、範頼の家人当麻太郎という者が頼朝の本心を確かめようと頼朝の寝室の床下忍び込むという事件が発生した。 ますます立場の悪くなった範頼は、8月17日、伊豆国の狩野宗茂、宇佐美祐茂らに預けらた。 その後、範頼がどうなったのか『吾妻鏡』からはわからないが・・・ 修禅寺に幽閉された後、間もなく梶原景時らに攻められて自刃したのだと伝えられている。 |
北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜 |
伊豆に流された源範頼は、修禅寺の八塔司の一つ信功院に幽閉された。 日柄神社の参道には、信功院跡に建てられた庚申塔が残されている。 参考までに、鹿山には異母弟の「源義経の像」が置かれている。 |
昔、源範頼墓がある地には、小さな石祠が建てられて八幡神を称し、8月15日を祭礼の日としていた。 祠の中の神は、冕冠(べんかん)を頂いた束帯姿で、左手に弓、矢を握っていた。 そのため、信功院で憤死した範頼の遺体をここに埋めたのだが、鎌倉に憚りがあるので八幡神を祀ったのではないかと伝えられてきた。 そして、明治12年、当時の土地所有者が頭の骨が納められたものを掘り出したことから、伝説のとおり範頼の墳墓の地とされ、祠の横に「蒲公碑」が建てられたのだという。 |
源範頼が生まれ育った蒲御厨には、伊勢神宮を勧請した蒲神明宮が創建された。 |
源範頼には、修禅寺を逃れて生き延びたという伝説が各地に残されている。 埼玉県北本市の石戸蒲ザクラは、落ち延びた範頼の杖が根付いたものといわれ、横浜市金沢区の太寧寺は範頼が自害した寺と伝えられている。 |
石戸蒲ザクラ (北本市) |
太寧寺 (横浜市金沢区) |
源範頼の妻は、安達盛長と丹後内侍の娘。 丹後内侍は、源頼朝の乳母を務めた比企尼の長女。 範頼の謀反の際、子の範円と源昭は比企尼の嘆願により助命され、範円の子孫は吉見氏として続いたのだと伝えられている。 |
息障院は、範頼の館跡とされる地に建てられた寺。 平治の乱後、範頼は吉見の安楽寺に逃れたと伝えられ、比企尼をはじめとする比企一族の庇護を受けていたのだ伝えられている。 範頼を祖とする吉見氏は範頼館を居館としていたのだという。 |
慈光寺は、源頼朝が伊豆の流人だった頃から信仰していた観音霊場。 助命された範円と源昭は、慈光寺に身を置き、別当になったとも伝えられる。 |
東京では浅草寺に次ぐ古刹・深大寺は、源氏の尊崇を受けて興隆した寺。 範円と源昭は深大寺に住み、源昭は慈光寺と深大寺の別当を兼ねていたとも伝えられる。 |
修禅寺には、範頼の舅安達盛長の墓もある。 |
源平合戦:源範頼の出陣 |
「修善寺」という地名は、弘法大師によって開創された修禅寺をその由来としている。 |
静岡県伊豆市修善寺964 伊豆箱根鉄道駿豆線「修善寺駅」より 修善寺温泉行バス。 「修善寺温泉」下車 |
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