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源範頼の起請文

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 『吾妻鏡』によると・・・

 1193年(建久4年)8月2日、兄の源頼朝に謀反の疑いを持たれてしまった源範頼は、誓の起請文を提出した。

 その内容は、


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 謹んで申立ていたします。

 私は、頼朝様の代官として、度々戦場へと向かい、朝敵を滅ぼす忠義を尽くしました。

 以来、二心など持っておりません。

 御子孫の将来にも、同じように貞節を守る所存です。

 頼朝様のお心に従っている事は、これまで頂戴した書状にも書かれています。

 その書状は、箱の底に秘蔵しております。

 しかし、今になって、誤りを犯していないにもかかわらず、謀反の疑いをかけられてしまい、不便なことです。

 いずれにしましても、現在も将来も不忠の思いは持ちません。

 子孫にも、この事を直ちに話し聞かせておきます。

 万が一にも、この書状の内容に背くようなことがあれば、天界では梵天・帝釈天、下界では伊勢神宮・春日大社賀茂神社、そして源氏の氏神八幡大菩薩の神罰が源範頼に下されるでしょう。

 建久四年八月 日

 三河守源範頼


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 この書状を読んだ頼朝は、

  「源の文字が書かれているのは、一族として考えているのであろうか?

 それは身分不相応な考えである。

 起請文の内容が偽りであることを示している」

 として、範頼の使者に伝えるよう命じ、大江広元が、そのことを使者の大夫属重能に伝えると、重能は、

 「範頼は、故源義朝殿の御子息です。

 頼朝様は御舎弟であることをご存じのはずです。

 頼朝様は、去る元暦元年(1184年)秋、範頼が平家討伐の代官として上洛した時には、『弟の範頼を九州に派遣する」ことを後白河法皇に奏聞しています。

 その内容は命令書にも載せられています。

 全く勝手に行ったわけではありません」

  と弁明したとのこと。

 それに対する頼朝の言葉はなかったが、重能の報告を受けた範頼は、あわてふためいたのだとか。









修禅寺
リンクボタン修禅寺
(伊豆市)
庚申塔
リンクボタン信功院跡
(伊豆市)

 その後、伊豆に流された範頼は、修禅寺信功院に幽閉され、間もなく梶原景時らに攻められて自刃したのだと伝えられている。


源範頼の墓
リンクボタン源範頼墓
(伊豆市)





 範頼の最期には異説もあって、越前に落ちて生涯を終えた説や、武蔵の吉見に逃れて吉見氏となった説などがある。

 また、横浜市金沢区には、修禅寺を逃れた範頼が最期を遂げたとする太寧寺があり、本尊が範頼の念持仏という薬王寺がある。


源範頼の墓
リンクボタン源範頼墓
(横浜:太寧寺)
石戸蒲ザクラ
リンクボタン石戸蒲ザクラ
(埼玉県北本市)









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