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『吾妻鏡』によると・・・ 1193年(建久4年)8月2日、兄の源頼朝に謀反の疑いを持たれてしまった源範頼は、誓の起請文を提出した。 その内容は、 |
謹んで申立ていたします。 私は、頼朝様の代官として、度々戦場へと向かい、朝敵を滅ぼす忠義を尽くしました。 以来、二心など持っておりません。 御子孫の将来にも、同じように貞節を守る所存です。 頼朝様のお心に従っている事は、これまで頂戴した書状にも書かれています。 その書状は、箱の底に秘蔵しております。 しかし、今になって、誤りを犯していないにもかかわらず、謀反の疑いをかけられてしまい、不便なことです。 いずれにしましても、現在も将来も不忠の思いは持ちません。 子孫にも、この事を直ちに話し聞かせておきます。 万が一にも、この書状の内容に背くようなことがあれば、天界では梵天・帝釈天、下界では伊勢神宮・春日大社・賀茂神社、そして源氏の氏神八幡大菩薩の神罰が源範頼に下されるでしょう。 建久四年八月 日 三河守源範頼 |
この書状を読んだ頼朝は、 「源の文字が書かれているのは、一族として考えているのであろうか? それは身分不相応な考えである。 起請文の内容が偽りであることを示している」 として、範頼の使者に伝えるよう命じ、大江広元が、そのことを使者の大夫属重能に伝えると、重能は、 「範頼は、故源義朝殿の御子息です。 頼朝様は御舎弟であることをご存じのはずです。 頼朝様は、去る元暦元年(1184年)秋、範頼が平家討伐の代官として上洛した時には、『弟の範頼を九州に派遣する」ことを後白河法皇に奏聞しています。 その内容は命令書にも載せられています。 全く勝手に行ったわけではありません」 と弁明したとのこと。 それに対する頼朝の言葉はなかったが、重能の報告を受けた範頼は、あわてふためいたのだとか。 |
修禅寺 (伊豆市) |
信功院跡 (伊豆市) |
その後、伊豆に流された範頼は、修禅寺の信功院に幽閉され、間もなく梶原景時らに攻められて自刃したのだと伝えられている。 |
範頼の最期には異説もあって、越前に落ちて生涯を終えた説や、武蔵の吉見に逃れて吉見氏となった説などがある。 また、横浜市金沢区には、修禅寺を逃れた範頼が最期を遂げたとする太寧寺があり、本尊が範頼の念持仏という薬王寺がある。 |
源範頼墓 (横浜:太寧寺) |
石戸蒲ザクラ (埼玉県北本市) |
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