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源範頼は、源義朝の六男。源頼朝の異母弟。 1180年(治承4年)に頼朝が挙兵した後、いつ参戦したかは不明だが、1183年(寿永2年)7月の志田義弘との野木宮合戦に援軍として出陣。 1184年(寿永3年)1月の木曽義仲追討では、弟の義経が宇治から、範頼が瀬田から攻めて義仲を滅ぼした。 平家追討では、1184年(寿永3年)2月の一ノ谷の戦いで平家軍を敗走させ、九州へ進軍し、翌年3月、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。 1189年(文治5年)の奥州合戦にも参戦し、源氏一門として鎌倉幕府でも重きをなしていた。 |
蒲神明宮 (浜松市) |
瀬田の唐橋 (大津市) |
蒲神明宮は、範頼が生まれ育った蒲御厨(現在の浜松市)に鎮座する神社。 瀬田の唐橋は、京都防衛上の重要な橋で、承久の乱でも激戦が繰り広げられている。 |
1193年(建久4年)5月、頼朝は富士裾野の巻狩りを催すが、5月28日夜半、曽我兄弟(十郎祐成と五郎時致)が工藤祐経を討つという事件が発生(曽我兄弟の仇討ち)。 『保暦間記』によると、鎌倉には「頼朝も討たれた」という誤報が伝わり、心配する北条政子に対して範頼は「私がいるから心配ない」と発言したのだという。 後日、それを聞いた頼朝は、範頼の謀反を疑ったのだとか。 |
『吾妻鏡』によると、 曽我兄弟の仇討ちから約2ヵ月が過ぎた8月2日、頼朝に謀反の疑いを持たれてしまった範頼は、誓の起請文を書いて提出。 だだ、起請文の署名が三河守源範頼となっていたため、 頼朝は「源の文字を使うのは、源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」 として激怒。 その報告を受けた範頼は、あわてふためいたという。 |
※ | 『吾妻鏡』には、頼朝が範頼謀反を疑った理由について記録されていない。 |
8月10日、範頼の家人・当麻太郎が、頼朝の本心を確かめようと頼朝の寝所の床下に忍び込むが、頼朝に感づかれて捕らえられた。 忍び込んだ理由は、範頼が起請文を提出した後、音沙汰がなかったため、頼朝の本心を確かめようとしたのだという。 当麻は言葉を尽くして陳謝したが、その行動は常軌を逸しており、不審ありと判断されてしまう。 |
※ | 当麻の行動について問われた範頼は「知らない事」と答えている。 |
8月17日、範頼は伊豆国の狩野宗茂、宇佐美祐茂に預けられ、当麻太郎は頼朝の娘大姫が病気だったことから処刑を免れ、薩摩国へ流された。 翌18日には、範頼の家人の橘太左衛門尉、江瀧口、梓刑部丞らが館に籠って武器を手入れしているとして、結城朝光、梶原景時、仁田忠常らに討伐され、20日には曽我兄弟の同腹の弟・原小次郎が範頼の縁座として処刑されている。 伊豆に流された範頼がどうなったのか『吾妻鏡』から知ることはできないが、伊豆国の修禅寺に幽閉された後、間もなく梶原景時らに攻められて自刃したのだと伝えられている。 |
※ | 縁座は、犯罪人の家族や家人を罰することで、処刑された原小次郎は範頼の家人だったのかもしれない。 |
※ | 曽我兄弟のもう一人の弟・律師は、7月2日、鎌倉に呼び出され、甘縄で自害している。 |
修禅寺 (伊豆市) |
信功院跡 (伊豆市) |
伊豆に流された範頼は、修禅寺の信功院に幽閉されたのだと伝えられている。 |
源範頼の妻は、安達盛長と丹後内侍の娘。 丹後内侍は、源頼朝の乳母を務めた比企尼の長女。 範頼の謀反の際、子の範円と源昭は比企尼の嘆願により助命されたのだという。 |
息障院は、範頼の館跡とされる地に建てられた寺。 助命された範円は、範頼館に住み、その子孫は吉見氏として続いたのだという。 |
慈光寺は、源頼朝が伊豆の流人だった頃から信仰していた観音霊場。 助命された範円と源昭は、慈光寺に身を置き、別当を勤めたとも伝えられる。 |
東京では浅草寺に次ぐ古刹・深大寺は、源氏の尊崇を受けて興隆した寺。 範円と源昭は深大寺に住み、源昭は慈光寺と深大寺の別当を兼ねていたとも伝えられる。 |
範頼の最期には異説もあって、越前に落ちて生涯を終えた説や、武蔵の吉見に逃れて吉見氏となった説などがある。 また、横浜市金沢区には、修禅寺を逃れた範頼が最期を遂げたとする太寧寺があり、本尊が範頼の念持仏という薬王寺がある。 |
源範頼墓 (横浜:太寧寺) |
石戸蒲ザクラ (埼玉県北本市) |
曾我兄弟の仇討ち・・・(okadoのブログ) 源頼朝の弟範頼(okadoのブログ) 富士裾野の巻狩と曾我兄弟の仇討ち・・・(okadoのブログ) |
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