志田義広は源為義の三男。 源頼朝の叔父。 常陸国志田庄を本拠とし、帯刀先生の職にあったことから志田三郎先生とも呼ばれます。 1180年(治承4年)、頼朝が挙兵し、鎌倉に武家政権を建てますが、それには加わらずにいました。 1183年(寿永2年)2月20日。 源頼朝討滅を企て、常陸を発った志田義広が下野に到着。 この時、平宗盛が派遣した軍や平重衡軍が東国へ向けて進んでいたことから、安田義定、和田義盛、岡部忠綱、工藤親光、宇佐美祐茂、土屋義清らの鎌倉の勇士は駿河に派遣されていました。 頼朝は、下総国の下河辺行平と下野国の小山朝政に対応を託します。 朝政の弟の長沼宗政と従兄弟の関政平も助勢のため鎌倉を発ちますが、政平は出発前に頼朝に暇乞いの挨拶にきたのだとか。 頼朝は政平に二心があると感じたようですが、そのとおり、政平は義広軍に加わったようです。 頼朝は、東の志田義広との戦い、西の平家との戦いが穏やかに収まることを祈るため、翌日から七日間、鶴岡八幡宮に参じることにしています。 |
2月23日、義広軍三万騎が鎌倉へ向けて出陣。 誘いを受けた足利忠綱も従軍しました。 足利忠綱は、下野国足利荘を本拠とする武将。 1180年(治承4年)に発せられた以仁王の令旨が、小山氏には届きますが、足利氏には届かなかったことから、源氏に反発して平家軍に加わったのだとか。 平等院の戦いでは、源頼政と以仁王を滅ぼしています。 義広は、小山朝政にも味方をするように伝えたようです。 朝政は、味方すると偽っておいて、義広を討つ策略を練ることとしたのですが、返事をするとすぐに義広が朝政の館近くまで来てしまいます。 ※この時、朝政の軍は、父政光が大番役で京都にいたため、兵のほとんどが京都に行っていたようです。 朝政は屋敷を出て野木宮に隠れ、義広が神社前に来た時に、等々力沢や地獄谷の林の木に登らせていた兵隊に一斉に大声を出させました。 その声が谷に響いて大軍勢を装うことに成功します。 義広が狼狽しているところへ、朝政軍が攻めかかります。 この時、義広の放った矢で朝政が落馬しますが命に別条なし。 主人を離れた馬は等々力沢でいなないていたようですが、この馬を鎌倉から小山へと向かっていた長沼宗政が見つけます。 宗政は朝政が討たれたと思い、急ぎ義広の陣へ向かい、その途中で義広の乳母子・多和利山七太を討ちとります。 その後、野木宮の西南に陣を引いた義広を、朝政と宗政は東から攻めますが、東南からの暴風が焼野の塵を巻き上げたため、人馬ともに視界を妨げられてバラバラとなり、多くの死骸が地獄谷登々呂木沢に残されたそうです。 下河辺行平と弟の政義は、古河と高野などの渡しを固め、逃げてくる義広軍の兵を討ち、足利有綱と嫡子・佐野基綱、四男・浅沼広綱、五男・木村信綱と太田朝達は、小手差原や小堤などに陣を張って戦いました。 この他に、八田知家、下妻清氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田為成、湊川景澄らが朝政の味方し、源範頼も参戦しました。 その結果、戦いは勝利を収めています。 |
野木神社は、小山朝政が陣を張った場所。 |
2月27日、頼朝が七日目の鶴岡八幡宮参拝を終えると、志田義広が逃亡したことを伝える使者が到着。 翌日には、長沼宗政が小山朝政の代理として頼朝に報告。 志田義広に味方した者の所領は、ことごとく没収されました。 志田義広に味方した足利忠綱は、野木宮の合戦で負けた後、上野国山上郷龍奥に数日隠れていましたが、山陰道を通って西海の方へ赴いて行ったのだとか。 野木宮合戦で本拠地を失った志田義広は、その後、木曽義仲に合流し、1183年(寿永2年)7月、義仲や異母弟の源行家とともに入京しますが、翌1184年(元暦元年)正月、義仲が源範頼と源義経に討ち取られると、逆賊として追討を受けることとなります。 同年5月4日、逃亡先の伊勢国羽取山で斬首されています。 |
頼朝の弟の全成や義経は、1180年(治承4年)に頼朝が挙兵するとすぐに参じていますが、範頼が『吾妻鏡』に登場するのは野木宮合戦が最初。 範頼は遠江国の蒲御厨で誕生し、1159年(平治元年)の平治の乱で父義朝が平清盛に敗れた以降は、京の官人藤原範季の養子となって遠江国で成長したのだといわれています。 そのため、1180年(治承4年)の頼朝の挙兵時には、遠江国を支配していた甲斐源氏の安田義定と活動をしていたものと考えられているようです。 |
蒲神明宮は、範頼が生まれ育った地に鎮座する神社。 |
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