1183年(寿永2年)に入ると、安定していた情勢も動き始めました。 2月20日、源頼朝の叔父にあたる志田義広(源為義の三男)が頼朝に反抗しますが、失敗に終わっています。 義広は常陸国で勢力をふるい、一時は、あなどりがたい勢力となっていました。 この叔父の反乱を頼朝が鎮圧したことは、鎌倉の新政権の力を関東一帯に知らしめることになり、その勢力が強化されるきっかけとなったといいます。 |
1180年(治承4年)、頼朝と相前後して挙兵した木曽義仲(頼朝の従兄弟)は、1183年(寿永2年)になると、信濃、上野、越後、越前をその勢力下に入れていました。 以前より、上野の支配については、頼朝の支配圏との関係で衝突があったのですが、1183年(寿永2年)3月、頼朝と義仲の関係は急激に悪化します。 頼朝と義仲の対立の原因として |
◎ | 頼朝に反抗した志田義広が義仲のもとに逃げ込み、これを義仲が匿ったため。 |
◎ | 甲斐の武田信光が縁組みを断られた腹いせに「義仲が頼朝を討とうとしている」と密告したため。 |
◎ | 頼朝が追放した源行家(頼朝の叔父)を義仲が匿ったため。 |
などがあげられています。 両者の対立は、あわや合戦というところまでになりますが、義仲が長男義高を頼朝のもとへ人質に出すことで和議が成立します。 |
義高は頼朝の娘大姫の許嫁ということで鎌倉へ送られてきます(義高が11歳、大姫は6歳くらいだったといいます。)。 大姫は義高によくなついていたといいますが、のちに義仲が討たれると義高も誅殺されました。 大姫はそのショックで病気となり生涯治ることはなかったといいます。 |
岩船地蔵堂は、大姫の守り本尊が祀られている御堂。 |
常楽寺裏山の木曽塚には、義高の首が葬られているという。 |
義仲の父は、東宮帯刀先生と呼ばれた源義賢。 異母兄・源義朝と対立し、1155年(久寿2年)8月、義朝の長子悪源太義平に武蔵国にあった大蔵館を襲撃されて討たれています。 当時3歳だった義仲は、斎藤実盛らの計らいで信濃国の木曽谷へ逃れ、乳母夫の中原兼遠の庇護のもとに育てられたのだといいます。 |
義仲の命を救った斎藤実盛は、武蔵国幡羅郡長井庄を本拠とした武将。 妻沼聖天山の名で知られる歓喜院は、実盛が建立した聖天宮に始まる寺院。 |
光照寺は、悪源太義平の菩提寺だと伝えられている。 |
旗挙八幡宮は、戦勝を祈願したという社。 木曽に館を構えた木曽義仲が京都の石清水八幡宮を勧請して祀ったのだと伝えられています。 |
義仲館は、義仲が育った地に建てられた資料館。 |
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