鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編



歴史めぐり源頼朝
〜江の島に弁財天を勧請〜








 1182年(養和2年)、源頼朝奥州平泉藤原秀衡調伏のため、文覚に命じて江の島に弁財天を勧請しました。

 4月5日、その供養のため、足利義兼北条時政新田義重畠山重忠下河辺行平・下河辺政義・結城朝光上総広常足立遠元土肥実平・宇佐美実政・佐々木定綱佐々木盛綱和田義盛三浦義連・佐野忠家らを供として江の島を訪れます。
 
 江島神社奥津宮の鳥居は、そのとき頼朝が寄進したものと伝えられています。

 文覚は、そのまま江の島に籠もり、21日間の断食をして祈りを捧げたということです。


 前年の1181年(養和元年)8月、清盛の跡を継いだ平宗盛は、藤原秀衡を陸奥守に推挙し頼朝追討令を出しています。

 そのため、頼朝は奥州の脅威にさらされていました 。



江の島
リンクボタン江の島
(藤沢市)

 江の島は神仏混淆の霊地として信仰を集めた島。

 かつての江島神社は、金亀山与願寺という寺で、頼朝が弁財天を勧請したときを創建とする説もあります。
 
 明治の神仏分離によって江島神社となりました。


源頼朝寄進の鳥居(江の島)
リンクボタン奥津宮の鳥居

頼朝の寄進と伝えられ、現在の鳥居は、2004年(平成16年)の台風で破損した後、補修されたもの。


奉安殿(江の島)
リンクボタン辺津宮の奉安殿

裸弁財天(妙音弁財天)と頼朝が勧請したと伝わる八臂弁財天を安置する八角堂。





 江の島参拝の帰路、頼朝は金洗沢(七里ヶ浜)で牛追物を催し、下河辺行平和田義盛・小山田重成・愛甲季隆などが褒美を与えられています。





 頼朝の祈願所・補陀洛寺の創建もこの年だったと伝えられています。

 開山は文覚

 頼朝自作といわれる木像、文覚が書いたとされる頼朝の位牌、文覚の裸形像、平宗盛が持っていたという平家の赤旗などが残されています。


補陀洛寺(鎌倉市)
リンクボタン補陀洛寺
(鎌倉市)





(参考)
〜源氏に伝えられた弁財天〜

増上寺宝珠院
リンクボタン弁財天
(増上寺宝珠院)

 増上寺の塔頭宝珠院の弁財天は、園城寺(三井寺)を開いた智証大師が竹生島で彫ったもので、頼朝は源氏再興に当たり深く信仰していたのだと伝えられています。

 後に徳川家康も信仰しました。




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