1182年(養和2年)、源頼朝は奥州平泉の藤原秀衡調伏のため、文覚に命じて江の島に弁財天を勧請しました。 4月5日、その供養のため、足利義兼・北条時政・新田義重・畠山重忠・下河辺行平・下河辺政義・結城朝光・上総広常・足立遠元・土肥実平・宇佐美実政・佐々木定綱・佐々木盛綱、和田義盛・三浦義連・佐野忠家らを供として江の島を訪れます。 江島神社の奥津宮の鳥居は、そのとき頼朝が寄進したものと伝えられています。 文覚は、そのまま江の島に籠もり、21日間の断食をして祈りを捧げたということです。 |
※ | 前年の1181年(養和元年)8月、清盛の跡を継いだ平宗盛は、藤原秀衡を陸奥守に推挙し頼朝追討令を出しています。 そのため、頼朝は奥州の脅威にさらされていました 。 |
江の島は神仏混淆の霊地として信仰を集めた島。 かつての江島神社は、金亀山与願寺という寺で、頼朝が弁財天を勧請したときを創建とする説もあります。 明治の神仏分離によって江島神社となりました。 |
頼朝の寄進と伝えられ、現在の鳥居は、2004年(平成16年)の台風で破損した後、補修されたもの。 |
裸弁財天(妙音弁財天)と頼朝が勧請したと伝わる八臂弁財天を安置する八角堂。 |
江の島参拝の帰路、頼朝は金洗沢(七里ヶ浜)で牛追物を催し、下河辺行平・和田義盛・小山田重成・愛甲季隆などが褒美を与えられています。 |
頼朝の祈願所・補陀洛寺の創建もこの年だったと伝えられています。 開山は文覚。 頼朝自作といわれる木像、文覚が書いたとされる頼朝の位牌、文覚の裸形像、平宗盛が持っていたという平家の赤旗などが残されています。 |
増上寺の塔頭宝珠院の弁財天は、園城寺(三井寺)を開いた智証大師が竹生島で彫ったもので、頼朝は源氏再興に当たり深く信仰していたのだと伝えられています。 後に徳川家康も信仰しました。 |
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