1182年(養和2年)3月9日、北条政子が懐妊し、安産祈願の「着帯の儀」が執り行われました。 帯は千葉常胤の妻が用意し、子胤正が献じています。 源頼朝自らが帯を締め、丹後局(安達盛長の妻)が手伝いをしたといいます。 3月15日、頼朝は、政子の安産祈願のために鶴岡八幡宮の参道若宮大路の造営にとりかかります。 頼朝自らが指揮し、北条時政らの御家人が土や石を運んだのだといいます。 |
※ | 丹後局は頼朝の乳母を務めた比企尼の娘。 |
若宮大路は一の鳥居から一直線に延びる鶴岡八幡宮の参道。 |
中央の一段高い段葛も同時期に造営されたものと考えられています。 |
若宮大路の造営と併行して行われたのが放生池(現在の源平池)の造営です。 4月24日、専光房良暹と大庭景義が奉行に任命され、弦巻田と呼ばれた三町余りの斎田の耕作をやめて池にしたのだと伝えられています。 また、源氏池の旗上弁財天社は、若宮大路を造営する際、琵琶小路にあった祠を移したものとも伝えられています。 5月15日には橋が架けられ(現在の太鼓橋)、朱塗りの板橋だったことから赤橋と呼ばれました。 |
源平池 |
太鼓橋 |
7月12日、出産間近となった政子は、産所とした比企ヶ谷の比企邸へ移ります。 御産の間の雑事の奉行には、梶原景時が任命されています。 |
妙本寺は比企邸の跡に建てられた寺。 総門前には、比企能員邸跡の石碑が建てられています。 |
8月11日、夜になって政子が産気づくと、頼朝は比企邸に赴き、祈祷のための奉幣の使者を伊豆山(伊豆山神社)・(箱根)箱根神社と、相模一宮(寒川神社)・武蔵六所宮(大国魂神社)・安房一宮(洲崎神社)など近国8箇所の宮社に派遣しています。 |
伊豆山神社 (熱海市) |
箱根神社 (箱根町) |
寒川神社 (寒川町) |
大国魂神社 (府中市) |
洲崎神社 (館山市) |
翌8月12日午後6時頃、政子は無事に男児(頼家)を出産します。 出産にあたっての祈祷は専光房良暹と大法師観修が勤め、悪魔払いのため大庭景義らによって「鳴弦」が、上総広常によって「引目」の儀式が行われます。 そして、午後8時頃、乳母になる河越重頼の妻(河越尼)が呼ばれ、初めて乳を与える儀式が行われました。 8月13日、宇都宮朝綱、畠山重忠、土屋義清、和田義盛、梶原景時、梶原景季、横山時兼が「護り刀」を献上しています。 御家人たちが献上した馬は200頭にもなり、鶴岡八幡宮・一之宮(寒川神社)・大庭寺(大庭神社?)・三浦十二天(芦名の十二所神社)・栗浜大明神(久里浜の住吉神社)をはじめとする神社に奉納されました。 その後、三夜・五夜・七夜・九夜の儀式が執り行われています。 |
※ | 祈祷を勤めた専光房良暹は、伊豆山権現の僧で、石橋山の戦いで頼朝を助けた梶原景時の兄という説があるようです。 |
※ | 河越重頼の妻は、頼朝の乳母を務めた比企尼の娘。 |
比企能員を源頼家の乳母夫に推挙〜比企尼の逸話〜 |
日光山輪王寺 |
日光二荒山神社 |
日光山輪王寺と日光二荒山神社は、日光の神仏混淆の寺社群で、江戸時代には徳川家康を祀る東照宮も加わって「日光山」と呼ばれていました。 頼家が誕生したこの年、頼朝は日光山の座主に寛伝を就任させました。 寛伝は頼朝の母由良御前の実家の熱田神宮大宮司家の出身で、頼朝の従兄なのだといいます。 |
瀧山寺は、日光山の座主に就いた寛伝が住持した寺。 聖観音菩薩及び両脇侍〈梵天・帝釈天〉像は、1201年(正治3年)、寛伝が頼朝の三回忌に運慶とその長男湛慶に造立させたものと伝えられています。 |
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