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洲崎神社は、神武天皇の時代に天富命(あまのとみのみこと)が祖母神の天比理乃当ス(あまのひりのめのみこと)を御手洗山に祀ったのを始まりとする。 『吾妻鏡』によると、1180年(治承4年)8月、石橋山の戦いに敗れ、海路で安房に渡った源頼朝は、9月5日、洲崎神社を参拝。 その後も信仰を続けた。 室町時代には太田道灌が江戸に分霊を勧請し、安房の里見義弘は社領を寄進するなど崇敬した。 |
※ | 太田道灌が江戸に分霊を勧請したのは、神田明神だったともいわれている。 |
洲崎神社は、江戸時代まで隣接する養老寺が別当寺を勤めていた。 |
1812年(文化9年)、房総半島の沿岸警備を巡視した松平定信は、「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納している。 |
『吾妻鏡』によると、1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で挙兵した源頼朝は相模国に進軍するが、石橋山の戦いで大敗し、8月28日、真鶴から安房国へと船出した。 翌29日、平北群猟島に上陸(現在の鋸南町竜島辺りと伝えられている。)。 |
源頼朝船出の浜 (真鶴町) |
源頼朝上陸地 (鋸南町) |
9月4日、上総広常と千葉常胤に参上するよう使者を送り、翌日5日、洲崎神社を参拝して使者が無事帰還した場合には神田を寄進するという願文を奉納している(9月12日には神田を寄進。)。 1181年(治承5年)2月10日、洲崎神社領の年貢以外の夫役や雑税のを免除。 1182年(寿永元年)8月11日、北条政子の安産祈願のため安西景益を奉幣使として派遣している(翌日誕生したのが嫡男の源頼家)。 |
東京都品川にある品川神社は、頼朝が洲崎神社を勧請して創建した神社と伝えられている。 |
源頼朝の伝説が残された「矢尻の井戸」の傍らに建てられた碑。 頼朝の上陸地については、『吾妻鏡』では平北群猟島(現在の鋸南町竜島辺り)だと伝えられ、『源平盛衰記』や『義経記』では洲崎だと伝えられている。 |
洲崎地区には「漂」(みよ)と「笠掛」(かさげ)という集落があって、これは源頼朝が松に笠を掛けて「あれ見様笠掛けて」といったことから、頼朝が見た集落を「漂」、立っていた集落を「笠掛」と呼びようになったのだという。 現在の笠掛け松は2009年(平成21年)に植樹されたもの。 |
浜の鳥居の前に置かれた御神石は、竜宮から洲崎大明神に奉納された2つの石の一つだとされ、もう1つは対岸の三浦半島にある安房口神社に祀られている。 安房口神社の石は口を開いていることから「阿形」、洲崎神社の石は裂け目の様子から「吽形」にたとえられ、この2つの石で東京湾の入口を守っているのだという。 |
石橋山の戦いで敗れ、安房国に渡った源頼朝は体勢を立て直し、千葉常胤、上総広常などの武将を従えて10月2日に武蔵国に入り、10月6日には相模国に入った。 |
千葉県館山市洲崎1697 JR内房線「館山」駅からJRバス「洲の崎神社前」下車 |
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