石橋山の戦いに敗れ、1180年(治承4年)8月28日、真鶴から安房へと船出した源頼朝は、翌29日、安房国平北群猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸しました。 先発していた北条時政や三浦一族とも合流しています。 ここから、頼朝は態勢を整え、鎌倉を目指します。 鎌倉入りを進言したのは千葉常胤だったといいます。 |
住吉神社は三浦一族が船出した地に鎮座する神社。 |
9月1日 |
安房国住人の安西景益に参陣するよう書状を送る。 |
9月3日 |
平北群を発って上総広常の屋敷へ向かう。 小山朝政・下河辺行平・豊島清元・葛西清重に参陣するよう書状を送る。 安房国長狭郡の長狭常伴が頼朝の宿舎を襲撃しようと企てるが、三浦義澄が征伐。 |
9月4日 |
安西景益参陣。 予定を変更して景益邸に渡御。 上総広常と千葉常胤に参陣するよう書状を送る(使者は和田義盛と安達盛長)。 |
9月5日 |
洲崎明神に参拝。願文奉納。 |
※ | 品川の品川神社は、頼朝によって洲崎明神が勧請されている。 |
9月6日 |
上総広常が千葉常胤に相談して参陣する旨を回答。 |
9月7日 |
木曽義仲が小笠原頼直を破る。 |
旗挙八幡宮は木曽義仲旗挙げの地に建つ神社。 |
9月8日 |
北条時政が甲斐国へ出発。 甲斐国の源氏を引き連れて信濃国へ赴き、平家軍を攻めるため。 |
武田八幡宮は甲斐武田氏の氏神。 |
9月9日 |
千葉常胤が鎌倉入りを進言(安達盛長が使者)。 |
9月10日 |
先祖源頼義の最初の恩給地丸御厨を巡見。 |
9月12日 |
洲崎明神に神田を寄進。 |
9月13日 |
上総国へ進軍。頼朝軍300騎に。 |
9月17日 |
上総広常の参陣を待たず下総国へ向かう。 千葉常胤が300騎を率いて参陣。 |
亥鼻城(猪鼻城)は千葉常胤の居城。 |
9月19日 |
隅田川辺まで進軍。 上総広常が2万騎を率いて参陣。 |
9月28日 |
江戸重長に参陣を命ずる。 |
9月29日 |
頼朝軍2万7千騎に。 葛西清重に江戸重長を討つよう命ずる。 石橋山で討死にした佐奈田義忠の母に使いを出し、義忠の子らを下総国へ送り届けるよう伝える。 平維盛が関東へ向けて出陣。 |
10月1日 |
駿河国代官の橘遠茂が興津の辺りに陣を構える(現在の清水市興津)。 異母弟全成と鷺沼の旅館で対面。 |
頼朝と全成が対面した鷺沼旅館は鷺沼城のことと考えられている。 |
全成は、1159年(平治元年)の平治の乱後、醍醐寺に入っていた。 |
10月2日 |
千葉常胤、上総広常とともに江戸川、隅田川を渡って武蔵国に入る。 頼朝軍3万騎に。 豊島清元、葛西清重、足立遠元が参陣。 頼朝の乳母を務めた寒河尼が息子(のちの結城朝光)を連れて訪問。 |
武蔵国に入った頼朝は浅草寺で平氏討滅祈願を行ったという。 |
10月3日 |
千葉常胤に命じて上総国の伊北常仲を追討。 常仲は9月3日に頼朝を襲撃しようとした長狭常伴の甥。 |
※ | 翌年の鶴岡八幡宮の上棟式では、長狭常伴の郎党左中太常澄が頼朝を暗殺しようとして処刑されている。 |
10月4日 |
長井の渡しに達すると、衣笠合戦で三浦の総帥義明を討った畠山重忠、河越重頼、江戸重長が参陣。 この三名は武蔵国の武士団の統率権・動員権を持つ「武蔵国留守所惣検校職」を相伝した秩父氏の一族。 |
大国魂神社に関東の兵を集めた頼朝は戦勝を祈願し、矢を奉納したという。 |
金剛寺は、大国魂神社へと向かう途中の頼朝が布陣したと伝えられている。 |
10月6日 |
先鋒を畠山重忠、殿(しんがり)を千葉常胤がつとめ相模国に入る。 この時の軍勢は、幾千万かわからない程の大軍だったという。 |
鎌倉七口の一つ亀ヶ谷坂は、鎌倉入りの際に使った道とも伝えられる。 |
10月7日 |
鶴岡八幡宮(由比若宮)を遙拝し、父源義朝の旧跡(亀ヶ谷、現在の壽福寺辺り)を訪れる。 |
妙楽寺は、鎌倉入りを果たした頼朝が 異母弟の全成に与えた長尾寺と深い関係があるらしい。 |
源頼朝は、安房国に上陸する前に下総国行徳に漂着し、うどんを食べて力を得たのだとか・・・ |
石橋山で敗れた頼朝が何故再起できたのか??? |
真鶴から安房へ船出 |
御所の造営 |
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