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慶元寺は、1186年(文治2年)、江戸重長が江戸城紅葉山(現在の皇居)に創建したことに始まる寺院。 当初は岩戸山大沢院東福寺と称した天台宗の寺院だったが、室町時代に江戸氏が没落。 江戸城は太田道灌に明け渡され、江戸氏は拠点を喜多見に移した。 それに伴い東福寺も1468年(応仁2年)に喜多見に移転。 1540年(天文19年)に浄土宗に改宗。 寺院名も永劫山華林院慶元寺と改められ、知恩院の末寺となった。 本堂は1716年の建築で、世田谷区にある寺院建築物では最古といわれている。 本尊は恵心僧都作という阿弥陀如来。 |
比叡山横川の恵心堂(恵心院)は、藤原兼家が建立。 ここで、元三大師として知られる良源の弟子で恵心僧都と呼ばれた源信が修行をして『往生要集』を著した。 源信は、紫式部の『源氏物語』の最後の十帖「宇治十帖」(手習の巻)に登場する横川の僧都のモデルとも言われる。 |
江戸重長は、武蔵国の国人領主江戸氏の二代当主。 江戸氏は平良文の孫・将恒を祖とする秩父氏の一流。 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源頼朝が挙兵すると、重長は平氏方の大庭景親について敵対。 8月26日には、一族の畠山重忠・河越重頼とともに頼朝が頼りとしていた三浦氏の衣笠城を攻めて、総帥の三浦義明を自刃に追い込んだ。 石橋山での敗戦後、安房国へ渡って再起した頼朝が数万騎を率いて長井の渡しに達すると、10月4日、畠山重忠、河越重頼とともに頼朝のもとに参陣。 『吾妻鏡』によると・・・ 9月28日、頼朝は重長を呼びつけ、 「石橋山では大庭景親について敵対したことはやむを得ないが、以仁王の令旨に従うべきである。 畠山重能(重忠の父)と小山田有重(重能の弟)は大番役で京都にいるので、武蔵国の棟梁は汝である。 周辺の勇士を引き連れて、参陣するように」 と伝えている。 しかし、翌29日には、重長が参陣しない事から、葛西清重に討ち取るように命じていたのだという。 江戸氏は、武蔵国の武士団の統率権・動員権を持つ「武蔵国留守所惣検校職」を相伝した秩父氏の一族。 当時は河越重頼がその職に就いていたと考えられるが、重長だったのではないかという説もある。 |
武蔵国豊嶋郡江戸を最初に本拠とした武将は、江戸重継。 平安時代の末、江戸郷を相続した重継は、後の江戸城本丸、二の丸周辺に居館を構えていたのだという。 |
東京都世田谷区喜多見4−17−1 小田急「喜多見駅」より徒歩約20分 |
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