|
江戸氏の居館から始まる。 |
武蔵国豊嶋郡江戸を最初に本拠とした武将は、江戸重継。 江戸氏は、桓武平氏の平良文の孫・将恒を祖とする秩父氏の支流。 平安時代の末、江戸郷を相続した重継は、後の江戸城本丸、二の丸周辺に居館を構えていたのだという。 二代当主の重長は源頼朝に従って活躍した武将。 秩父氏の一族畠山重忠の母は重継の娘という説もある。 |
世田谷区喜多見にある慶元寺は、江戸重長が紅葉山に創建したことに始まると伝えられている寺院。 |
江戸氏の居館から太田道灌の居城 |
1455年(享徳3年)、五代鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を暗殺するという事件が勃発。 その後の関東は、足利成氏と山内上杉家・扇谷上杉家との争いが断続的に28年間続いた(享徳の乱)。 この反乱が戦国時代の始まりとされている。 この間、江戸氏が没落。 そして、1457年(康正3年)、享徳の乱の際して築かれたのが江戸城。 築城したのは、扇谷上杉家の家宰太田道灌。 江戸氏の居館も江戸城と呼ばれるが、徳川幕府の公文書『徳川実紀』では、道灌の築城が江戸城の始まりとされている。 道灌は、本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いていたのだという。 しかし、1486年(文明18年)、道灌は、扇谷上杉家の上杉定正に相模国の糟屋館へ誘き出されて謀殺されてしまう。 |
太田道灌の墓 (大慈寺) |
太田道灌の墓 (洞昌院) |
謀殺された太田道灌の首は大慈寺に葬られ、胴は洞昌院に葬られたのだという。 |
英勝寺 (鎌倉) |
太田道灌の首塚 (鎌倉) |
鎌倉の英勝寺は太田道灌の旧蹟に建てられた寺。 裏山に道灌の首塚がある。 |
後北条氏の支配下に。 |
道灌謀殺後の扇谷上杉家は、山内上杉家と対立して長享の乱へと発展。 その内紛に乗じて関東に進出してきたのが、伊豆国の韮山城を居城としていた北条早雲。 1495年(明応4年)、扇谷上杉家の家臣大森藤頼の小田原城を奪取した早雲は、1516年(永正13年)には三浦氏の新井城を落として相模国全域を平定。 1524年(大永4年)、早雲の家督を継いで武蔵国に進出していた氏綱が扇谷上杉を破り、江戸城は北条氏の支配下となる。 扇谷上杉家は、1545年(天文14年)の河越夜戦で北条氏康に敗れ滅亡している。 |
川越城(河越城)も太田道灌の築城。 現在では、江戸期の本丸御殿が唯一残された遺構となっている。 |
徳川幕府の江戸城 |
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐で戦国大名としての北条氏が滅亡。 小田原征伐後、関東に移封された徳川家康は、小田原城には入らず、江戸城に入った。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年(慶長8年)、江戸に幕府を開き、江戸城の土木・建築工事(大拡張工事)を全国の諸大名に命じた(天下普請)。 天下普請は、1660年(万治3年)まで続き、日本一と言われるほどの規模にまで築き上げられている。 以後、200年以上にわたり江戸幕府の中枢として機能したが、1867年(慶応3年)、十五代将軍徳川慶喜が二条城で大政奉還して政権を朝廷に返上。 翌明治元年、江戸城は明治新政府に明け渡された。 |
伊東市の伊豆高原駅前には、江戸城の大拡張工事で切り出された伊豆石が置かれている。 |
1315年(正和4年)から家康が江戸に入る1590年(天正18年)まで、江戸前島は円覚寺領だった。 家康は江戸前島を横領し、1603年(慶長8年)から始められた土木・建築工事の際に江戸城の一部としてしまった・・・ |
江戸前島〜源頼朝と円覚寺と徳川家康 |
円覚寺は鎌倉幕府八代執権の北条時宗が創建した禅刹。 |
江戸城の外郭(総構)は、江戸市街の全てを囲むもので周囲約16qもあった。 参考までに、豊臣秀吉の大坂城は約8q。 小田原北条氏の小田原城は約9q。 |
小田原城の小峯御鐘ノ台大堀切は、全国最大規模の遺構といわれている。 |
住吉神社 |
築地本願寺 |
住吉神社には、織田信長が横死した本能寺の変後、伊賀越えで三河国を目指す家康を摂津国佃島の漁師が救ったという伝説がのこされている。 家康が江戸城に入ると、摂津国佃島の漁師も江戸に下り、佃島を築き、住吉神社を創建。 浄土真宗門徒だった漁師たちは、築地本願寺の再建にも尽力したのだという。 |
寛永寺 |
増上寺 |
寛永寺は、1625年(寛永2年)、天台宗の僧・天海の発願によって、江戸城の鬼門を守護する寺院として創建された。 増上寺は徳川家康が江戸に入る前からある寺で、1598年(慶長3年)、家康によって現在地に移された。 |
神田明神 |
日枝神社 |
神田明神は、1616年(元和2年)、江戸城の表鬼門守護にあたる現在の地に遷座され、江戸総鎮守として尊崇された。 裏鬼門には、1478年(文明10年)に太田道灌が江戸城築城にあたって勧請したのを始まりとする日枝神社がある。 日枝神社は、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守日枝神社を勧請したのだという。 |
久能山東照宮 |
徳川家康宝塔 (久能山東照宮) |
久能山東照宮は、徳川家康が埋葬された地。 家康の母・於大の方が子授けの祈願をしたという鳳来寺、歴代将軍の位牌が納められている大樹寺、家康が生まれた岡崎城がある西方を守護しているのだという。 鳳来寺境内に建てられた鳳来山東照宮には、江戸城にあった紅葉山東照宮の御神体が遷祀されている。 |
日光東照宮 |
徳川家康宝塔 (日光東照宮) |
日光東照宮は、江戸北方の守護神。 増上寺ー江戸城ー日光東照宮は一直線上に存在する! |
泉岳寺は、江戸城松之大廊下で高家旗本・吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ赤穂藩主浅野内匠頭長矩と、吉良邸に討ち入って主君の仇を討った大石良雄(内蔵助)以下47人の赤穂浪士の菩提寺。 |
萬昌院は、吉良義央が葬られた寺。 義央は三河吉良氏。 三河吉良氏は、三河一向一揆で松平家康(徳川家康)に敵対したが、高祖父の義安が相続を許され、曾祖父義定が江戸幕府に仕えることとなった。 |
※ | 松平家康に敵対した吉良義昭〜三河一向一揆〜 |
外側の高麗門と内側の渡櫓門からなる二重構造の門で、正式には外桜田門(本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対する名。)。 |
1860年(安政7年)3月3日、桜田門の近くで水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた。 |
港区西麻布の桜田神社は、源頼朝の命で霞が関(桜田門外)に建立されたことに始まると伝えられている社。 頼朝が寄進した神田の畔に植えられた桜が「桜田」の由来なのだとか・・・ |
鎌倉の上行寺は、桜田門外で井伊直弼を暗殺した水戸藩浪士の一人広木松之介が逃亡の果てに自害した寺。 |
井伊直弼は彦根藩十五代藩主。 1815年(文化12年)10月29日、彦根城で誕生した。 |
西郷隆盛の留魂祠 (大田区洗足池) |
勝海舟夫妻の墓 (大田区洗足池) |
1868年(慶応4年)、池上本門寺で勝海舟と西郷隆盛が会談。 その結果、江戸城の無血開城が実現し、江戸の街は戦火から救われた。 |
上野公園の西郷隆盛の銅像は、1898(明治31)に建てられたもの。 建設にあたっては、江戸城無血開城の功績により宮内省から500円の下賜があったのだという。 |
手前が「正門石橋」、奥が「正門鉄橋」。 一般に、この二つの橋を二重橋と呼ぶが、正確には奥の鉄橋を二重橋という。 奥の鉄橋は「下乗橋」とも呼ばれた橋で、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造となっていたのだという。 |
和気清麻呂は、皇位に就こうとした道鏡の野心を阻止した人物。 また、平安遷都を進言し、新都市造営の推進者としても知られている。 清麻呂が建立した神願寺と高雄山寺を前身とする京都の神護寺には霊廟が置かれ、京都御所の蛤御門前には神護寺に祀られていた護王神社が遷座されている。 |
東京都千代田区千代田1−1 ( 宮内庁管理部) |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|