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小田原北条氏は、豊臣秀吉の侵攻に備え、小田原城と城下町を土塁と空堀で囲い込んだ。 「総構」(そうがまえ)と呼ばれるもので、八幡山から海側に至るまでの二里半(約9キロメートル)もあったのだという。 1590年(天正18年)の小田原征伐後、関東移封となった徳川家康は、1614年(慶長19年)に総構えを撤去させた。 しかし、完全に撤去することはできず、小峯御鐘ノ台大堀切(こみねおかねのだいおおほりきり)などの遺構が残されている。 小峯御鐘ノ台大堀切は、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断して構築されたもの。 中堀・西堀・東堀で構成された空堀で、特に東堀は当時の様子が最も良く残されている。 東堀の幅は20〜30m、深さは土塁の頂上から約12m で、傾斜は50度という急勾配。 空堀としては全国最大規模のものといわれている。 |
豊臣秀吉の大坂城の総構は、長さは約8キロメートルだった。 |
徳川家康の江戸城の総構は、江戸市街の全てを囲み、長さは約16キロメートルだった。 |
総構と重なる位置にある三の丸外郭新堀土塁から見える石垣山には、小田原征伐の際に豊臣秀吉が城を築いた。 石垣山城の出現は、北条軍の戦意を喪失させたのだという。 |
石垣山城 |
氏政・氏照の墓 |
早雲寺 |
北条五代の墓 |
黒田官兵衛が譲り受けた『吾妻鏡』北条本〜小田原征伐〜 |
小田原市城山3−30 小田原駅北口から徒歩30分 小田原駅北口からいこいの森行バス 城山四丁目下車 |
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