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小田原征伐は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が小田原北条氏(後北条氏)を滅亡させた戦い。 1585年(天正13年)、関白となった秀吉は、1587年(天正15年)には九州征伐を行って西国をほぼ平定し、京都に政庁兼邸宅の聚楽第を造営。 同年12月、関東・奥羽地方に大名間の私的な領土紛争を禁止する惣無事令を発出。 翌年4月には聚楽第に後陽成天皇を迎えて、徳川家康・織田信雄・宇喜多秀家・前田利家らの有力大名に忠誠を誓わせた。 ただ、小田原の北条氏政・氏直父子は列席しなかったため、小田原征伐の大義名分ができあがったのだという。 そして、1589年(天正17年)10月に起こるのが名胡桃城事件。 北条の家臣で沼田城代の猪俣範直が真田昌幸の家臣・鈴木重則が守る名胡桃城を奪ってしまう。 秀吉は、惣無事令違反として関東の領主たちに「氏政が11月中に上洛しないときは北条を征伐する」ことを通知。 11月24日には北条氏への宣戦布告状を発した。 娘の督姫を氏直に嫁がせていた家康も12月10日に上洛し、秀吉に同意。 翌年1月には、実質上の嫡男で三男の長丸(のちの秀忠)を人質として上洛させている。 ただ、長丸はすぐに送り返されている。 |
1590年(天正18年)1月、秀吉は軍事動員令を発し、2月には豊臣秀次・徳川家康・前田利家・織田信雄らを出陣させ、3月1日には自らも聚楽第を出陣。 一方、北条氏は籠城を決定し、1月に軍事動員令を出している。 4月4日、家康らが小田原城を包囲すると、秀吉は箱根湯本の早雲寺を本営とし、小田原城が見渡せる石垣山に城が築き始め、6月26日に完成させた(石垣山城)。 この城の出現は、北条氏側の将兵の戦闘意欲を喪失させる効果があったと言われている。 そして、7月5日、氏直が降伏して開城したことで、戦国大名としての北条氏は滅亡した。 |
小田原城は、小田原北条氏の初代・北条早雲が奪取した城で、二代氏綱・三代氏康・四代氏政・五代氏直の居城となった。 上杉謙信や武田信玄も落とすことができなかった難攻不落の城。 それが、秀吉との合戦で籠城を決定した理由の一つなのかもしれない。 小田原征伐後、小田原城には大久保忠世が入っている。 |
総構(そうがまえ)は、小田原城と城下町を土塁や塀で囲んだ防御施設。 秀吉との合戦に備えて整備された総構は、全長約9qにもなるものだった。 |
総構は、徳川家康にほぼ撤去されてしまうが、小峯御鐘ノ台大堀切は当時の面影を残した遺構。 |
秀吉が本営とした早雲寺は、北条早雲の遺言により創建された北条氏の菩提寺。 境内には、秀吉に処刑された千利休の高弟・山上宗二の追善碑がある。 |
石垣山城は、秀吉が北条氏攻略のために築いた陣城。 完成後に周囲の木を伐採して一夜のうちに築いたように見せかけたことから「石垣山一夜城」と呼ばれる。 淀殿や千利休も呼ばれたのだとか。 |
箱根の底倉温泉にある太閤石風呂は、豊臣秀吉が将兵たちとともに疲れを癒したという湯。 淀殿も訪れたのだとか。 |
小田原征伐で徳川家康が陣を張ったのは、今井村の土豪・柳川和泉守泰久の屋敷地。 |
秀吉は、小田原攻めを招いた責任者として四代当主・北条氏政と弟氏照に切腹を命じた。 |
氏政の継室・鳳翔院殿は、籠城戦が行われている最中の6月12日に死去。 同日、氏政の生母・瑞渓院も死去していることから自害したのではないかと言われている。 氏政・氏照の墓の横の五輪塔は鳳翔院殿のものと考えられる。 瑞渓院の墓所は善栄寺。 |
伊豆山神社 (走湯権現) |
箱根神社 (箱根権現) |
伊豆山神社と箱根神社は、古代からの霊地で伊豆の流人だった源頼朝が源氏再興を祈願した社。 それぞれ関八州総鎮護・関東総鎮守と称されている。 小田原征伐で焼かれてしまうが、北条氏滅亡後に関東移封となった徳川家康が再建している。 箱根神社には、小田原征伐の最中に秀吉が聚楽第の北政所(寧々)に宛てた自筆の書状が残されている。 |
玉縄城は、北条早雲が築いた城。 小田原征伐では、徳川家康が包囲し、4月21日、説得された五代城主の北条氏勝が無血開城した。 その後、氏勝は家康に仕えて下総岩富1万石の領主となり、関ヶ原の戦いに参陣している。 |
韮山城は、北条早雲の居城。 小田原征伐では、北条氏規(北条氏康の五男)が城に籠もり、豊臣勢4万の兵を3千という寡兵で4ヶ月も守り抜いた。 徳川家康の説得によって、6月24日に開城。 韮山城攻撃の陣鐘として使用されたのは、家康ゆかりの清見寺の梵鐘だったのだという。 その後、氏規は狭山藩を与えられ北条氏を継承している。 参考までに・・・ 伊豆の国市は源頼朝・北条政子・北条時政・北条義時・北条泰時ゆかりの地。 小田原征伐では時政が頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立した願成就院が焼失している。 |
早雲寺の北条五代の墓は、1672年(寛文12年)、狭山藩北条家五代当主の氏治が北条早雲の命日である8月15日に建立した。 毎年5月に開催される北條五代祭りでは墓前供養が営まれる。 |
河越城は、扇谷上杉家の太田道真・道灌父子が築城。 小田原北条氏二代当主の北条氏綱が奪取。 小田原征伐後、徳川家康によって川越藩が立てられると酒井重忠が藩主となった。 川越の喜多院は、家康の側近だった天海が再興した寺。 |
江戸城は源頼朝に仕えた江戸氏の居館に始まる城で、戦国期には江戸氏が没落すると、扇谷上杉家の太田道灌が築城。 扇谷上杉家の滅亡後、北条氏の支配下に置かれた。 小田原征伐後、関東移封となった徳川家康は江戸城にはいっている。 |
江戸前島〜源頼朝と円覚寺と徳川家康 |
鶴岡八幡宮 |
鶴岡八幡宮の模型 |
7月17日、豊臣秀吉は鶴岡八幡宮を参拝。 徳川家康に再建を命じ、翌年から修繕が開始された。 鶴岡八幡宮の模型は、秀吉が作成させた「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」(修理の設計図)をもとに作られたもの。 |
住吉神社は、佃煮発祥の地に建つ社。 小田原征伐後、関東移封となった徳川家康と関係があるらしい。 織田信長が横死した本能寺の変、家康の伊賀越えの伝説も・・・ |
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