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北条氏綱は北条早雲(伊勢盛国)の嫡男。 小田原城を居城とし、早雲が平定した伊豆国・相模国に加え武蔵国・下総・駿河国にまで領土を拡げた。 氏綱の時代から「伊勢氏」は「北条氏」と名乗るようになるが、領国支配を正当化するため鎌倉時代の執権北条氏の後継者であることを主張するためだといわれている。 また、寒川神社・箱根権現・相模六所宮・伊豆山権現などの再建を手掛け相州太守と名乗っていたという。 1541年(天文10年)7月19日死去。 |
1526年(大永6年)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込み氏綱と激戦を繰り広げるが、この戦いで鶴岡八幡宮が焼失した。 氏綱は1532年(天文元年)から再建事業に着手、工事にあたっては興福寺をはじめ奈良・京都の宮大工が呼び寄せられたという。 1540年(天文9年)には正殿遷宮が行われた。 その後も再建事業は続けられ、全てが終わったのは子の氏康の代になった1544年(天文13年)のこと。 |
里見氏鎌倉来襲 |
玉縄首塚 |
玉縄城址
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小田原城
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武家の都鎌倉の再興を誓った北条早雲 |
名刀正宗で知られる鎌倉時代を代表する鍛冶職人を五郎正宗。 戦国時代に入ると鎌倉の職人の多くは小田原へと移住したというが、正宗の子孫は鎌倉に住みつき、北条氏綱の一字をもらい、代々「綱廣」と名乗るようになる。 氏綱からは土地も与えられ、そこは綱廣谷と呼ばれていた。 徳川の時代となっても手厚く扱われ、元禄年間中には江戸にも屋敷を拝領したという。 |
早雲寺 |
北条五代の墓 |
早雲寺は、北条早雲の死後、子の氏綱が創建した北条氏の菩提寺。 墓所には早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓がある。 1590年(天正18年)の小田原落城後、北条氏を継承した狭山藩北条家五代当主の氏治が1672年(寛文12年)に早雲の命日に際して建てたもの。 |
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