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「刃稲荷」は、鎌倉時代の刀匠正宗(五郎入道正宗)の屋敷に祀られていた稲荷社。 正宗は新藤五国光に師事し、「相州伝」を完成させた鍛冶職人。 江戸時代に松尾百遊らが再興したものといわれている(百遊は、六地蔵の芭蕉の句碑を建てた人物)。 祠には、正宗が鍛えた刀が納めてあったといわれているが今はない。 |
「包丁正宗」は、荏柄天神社に伝来した名刀。 |
戦国時代に入ると関東の中心が小田原に移る。 その流れで商工民も小田原へと移り住んだが、正宗の十一代目の子孫は鎌倉に住みつき、北条氏綱の一字をもらって「綱廣」と名乗り、以後代々「綱廣」を称した。 氏綱からは無量寺ヶ谷に土地も与えられ、やがてそこは綱廣谷と呼ばれるようになる。 徳川の時代となっても手厚く扱われ、元禄年間中には江戸にも屋敷を拝領したという。 |
無量寺ヶ谷にあったという綱廣の屋敷は、佐助ヶ谷へと向かうトンネル(佐助隧道)の手前辺りではなかったかと考えられている。 谷戸の入口には「正宗の井」があって、綱廣の屋敷があったことを物語っている(「正宗の井」は、現在は個人敷地内となっている。)。 |
正宗の墓 (本覚寺) |
正宗殿 (藤沢妙善寺) |
正宗という名は日蓮につけてもらったといわれている。 龍ノ口法難によって佐渡に流されていた日蓮が、許されてこの地にあった夷堂に身を寄せていた頃、正宗の父行光が正宗とともに日蓮のもとを訪れ、教えを乞うたのだともいわれる。 参考:正宗の伝説(妙善寺:藤沢) |
葛原岡神社の合鎚稲荷社は、正宗の子孫が北条氏綱から与えられた無量寺ヶ谷の屋敷跡にあったものだという。 2013年(平成25年)に葛原岡神社へ移された。 |
砂鉄の砂浜 |
針磨橋 |
かつて、七里ヶ浜は砂鉄の採集場であった。 特に極楽寺川、音無川の河口で砂鉄が多く採集できたという。 そのため、鎌倉で刀などの鍛冶産業が発展したのだといわれている。 |
鎌倉市扇ガ谷1丁目 鎌倉駅西口から徒歩10分 |
現在も綱廣の名は受け継がれ現在で二十四代目。 その技は、「正宗工芸」として鎌倉を代表する産業となっている。 |
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