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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの寺社・史跡めぐり伊豆国編。 |
1160年(永暦元年)3月11日、前年の平治の乱で平清盛に敗れた源頼朝が伊豆国流罪となります。 この時、頼朝は14歳。 在地豪族の北条時政の娘で、のちに頼朝と結婚する北条政子はまだ幼女。 それから数年後、北条時政邸では、のちに二代執権となる北条義時が誕生。 頼朝の武家政権樹立の歴史は、伊豆国から始まります。 |
2023年の大河は、『吾妻鏡』を愛読し、源頼朝を尊敬していたという徳川家康。 |
11月23日(水・祝)、大河ドラマ館が設置されている韮山時代劇場で、島田市の智満寺に聳えていた源頼朝お手植えの頼朝杉で造立された「源頼朝像」が公開されました。 |
★伊豆の流人・源頼朝 |
伊豆の流人となった頼朝は、様々な援助を受けていました。 特に乳母の比企尼は、1180年(治承4年)に頼朝が挙兵するまでの約20年間、生活物資の援助を続けました。 比企尼の三人の娘は、頼朝の側近安達盛長・武蔵国の最大勢力河越重頼・伊豆の豪族伊東祐親の子祐清に嫁ぎ、それぞれが頼朝を援助していたものと思われます。 |
頼朝が流された地は蛭ヶ小島と伝えられていますが、流人時代の行動からすると、はじめは伊東で暮らしていたのかもしれません。 |
伊豆山神社 (熱海市) |
箱根神社 (箱根町) |
頼朝は、走湯権現(伊豆山神社)や箱根権現(箱根神社)に帰依し、父義朝や源氏一門の菩提を弔いながら過ごします。 ただ、京都の情報は三善康信から得ていました。 康信の母は、頼朝の乳母の妹だったそうです。 |
六萬部寺の経塚は、父祖の冥福と源氏再興を祈願して法華経六萬部を納めた場所なのだと伝えられています。 |
流人ですので社会的地位は否定されていた頼朝ですが、乗馬や狩猟は自由だったのだといいます。 葛城山では狩猟を楽しんだのだとか。 |
頼朝が伊豆に流されると、比企尼は夫の比企掃部允とともに京都から武蔵国比企郡へ下ったのだといいます。 埼玉県東松山市には、比企尼が草庵を結んだという比丘尼山や甥の比企能員の館跡という宗悟寺があります。 坂東札所の正法寺(岩殿観音)は、比企能員が復興したといわれ、千手観音は北条政子の守り本尊だったとも伝えらています。 |
流人頼朝の側近として仕えた安達盛長、京都から情報を送り続けた三善康信は「鎌倉殿の13人」の一人。 一説によると、中原親能も流人時代の頼朝と親交があったのだとか。 親能は、のちに鎌倉幕府の政所別当となる大江広元の兄。 |
静岡県島田市には、流人頼朝が参籠して源氏再興を祈願したと伝えられる智満寺があります。 頼朝お手植えとされていた頼朝杉がありましたが、残念ながら2012年(平成24年)に倒木。 しかし、その一部は2015年(平成27年)に弥勒菩薩像として蘇り、2022年(令和4年)8月には頼朝像が完成して鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納される予定です。 |
鶴岡八幡宮に奉納されるはずだった源頼朝像 |
愛知県新城市には、平治の乱に敗れた頼朝が匿われていたと伝わる鳳来寺があります。 鳳来寺の薬師如来は日本三大薬師の一つ。 徳川家康の母於大の方は鳳来寺の薬師如来に祈願して家康を授かったのだとか。 |
★伊東祐親と八重姫・千鶴丸 |
伊東祐親は、伊豆国田方郡伊東荘を本拠としていた武将。 頼朝の監視役でした。 |
伊豆に流された頼朝は、やがて、伊東祐親の娘八重姫と結ばれて男子を授かります。 祐親が大番役で在京のときの出来事でした。 音無神社は、頼朝と八重姫が密会を繰り返したという「おとなしの森」に鎮座します。 |
八重姫と密会するため、日暮れになるのを待った場所が、日暮八幡神社が鎮座する「ひぐらしの森」だったのだと伝えられています。 授かった子は千鶴丸と名付けられ、三人は幸せな日々を送っていましたが、京から戻った祐親は激怒し、千鶴丸は殺害され、八重姫は江間小四郎に嫁がされてしまいます。 |
千鶴丸の遺体は、川を下って富戸の海岸に流れ着き、産衣石の上に乗せられて着衣を乾かされた後、丁重に葬られたのだと伝えられています。 |
富戸の三島神社には、千鶴丸が祀られています。 |
最誓寺は、八重姫と江間小四郎が千鶴丸を供養するために建てた西成寺が始まりと伝えられています。 八重姫が奉納したという千鶴丸地蔵菩薩像が安置されています。 |
★走湯権現に逃れた頼朝と八重姫の悲しい伝説 |
伊豆山神社は、伊豆山権現・走湯権現と称されていました。 八重姫の件で、祐親は頼朝も殺害しようとしますが、祐親の子祐清が頼朝に知らせたことで、頼朝は走湯権現に逃れたのだと伝えられています。 |
一杯水は、走湯権現に逃れる頼朝が、喉の渇きを潤うしたという水。 傍らの地蔵堂には、千鶴丸を供養するための地蔵尊が安置されています。 |
今宮神社では武運を祈願したのだとか。 |
走湯権現に逃れた頼朝は、その後、北条時政を頼ったようです。 頼朝のことを忘れられない八重姫は、頼朝のいる北条館を訪ねますが、頼朝は時政の娘政子と結ばれていました。 悲しんだ八重姫は真珠ヶ淵に身を投げたのだと伝えられ、真珠院の八重姫御堂には、八重姫の木像と供養塔が安置されています。 |
真珠院では、4月第二日曜日に「八重姫まつり」(八重姫梯子供養祭)が開催されます。 |
頼朝と八重姫・千鶴丸の話は伝説の域を出ないものですが、祐親が頼朝を討とうと考えたのは事実のようです。 『吾妻鏡』は、その事件を1175年(安元元年)9月の事と伝えています。 |
★暗殺された河津祐泰 |
1176年(安元2年)、奥野の狩場で頼朝を慰めるための狩猟が催されました(前年に伊東を脱出した頼朝がいるわけないのですが・・・)。 その帰路、伊東祐親の子河津祐泰は、領地問題のもつれから工藤祐経に殺害されました。 血塚は、祐泰が落命した地。 |
東林寺は、祐親が子の祐泰の菩提を弔うために建立したことに始まる寺。 祐泰と祐泰の子で父の仇工藤祐経を討った曽我兄弟の五輪塔が建てられています。 |
妙法華寺は、工藤祐経の孫日昭が鎌倉に建立した法華堂を前身としています。 |
河津祐泰には2人の子がいましたが、母の満江御前が再婚した曽我祐信を養父として育ちます。 そして、1193年(建久4年)、頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に仇討ちを決行して工藤祐経を討ち取りました。 祐泰が討たれた直後に生れた子もいましたが、伊東祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られています。 |
北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜 |
★頼朝に挙兵を勧めた文覚 |
毘沙門堂は、後白河法皇に神護寺再興の勧進を強行して伊豆に流されてきた文覚が草庵を結んだ場所と伝えられています。 文覚は、蛭ヶ小島の頼朝をたびたび訪れて源氏再興の挙兵を勧めたのだと伝えられています。 |
滝山不動明王は、頼朝と文覚が祈願崇拝したことから旗挙不動明王とも呼ばれています。 |
文覚は、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていましたが、同僚の源渡の妻袈裟御前に懸想し、誤って袈裟御前を殺してしまったことから出家したのだといいます。 頼朝が鎌倉に武家の都を創ると、その力を借りて神護寺再興に尽力しました。 東寺の講堂の諸仏も文覚が運慶に依頼して修復したのだと伝えられています。 |
★北条政子と結婚した頼朝 |
北条政子は、伊豆国田方郡北条を本拠としていた北条時政の長女。 母は伊東祐親の娘とも言われますが、定かではありません。 頼朝と政子が結婚したのは、1177年(治承元年)頃で、翌年、長女の大姫が誕生したのではないかと考えられています。 |
結婚後の頼朝と政子は、北条館に住んでいたようです。 |
北条館跡に残されている井戸は、政子の産湯の井戸と伝えられています。 |
成福寺は北条館の一部だったと考えられ、頼朝と政子のために建てられた別亭があった場所とも。 |
★政子の弟義時 |
北条義時は、北条時政の次男。 姉の政子が頼朝と結婚したことで、頼朝の挙兵に従い、鎌倉幕府の創設に尽力しました。 義時は北条の分家の江間家の初代と考えられ、江間には北条義時邸があったと伝えられています。 そのため、江間小四郎とも呼ばれますが、いつからそう呼ばれていたのかは不明です。 |
江間四郎・江間小四郎と呼ばれた北条義時 |
北條寺は、北条義時が建立した寺院。 大蛇に襲われて死んだ嫡子安千代丸の菩提を弔うために建立したという伝説が残されています。 |
豆塚神社は、北条義時が崇敬したという神社。 |
珍場神社には、義時の嫡子だったという安千代丸の霊が祀られています。 |
北条義時の嫡子安千代丸と大蛇の伝説(北條寺創建伝説) |
頼朝との仲を引き裂かれた八重姫が嫁いだ江間小四郎は、北条義時のこととする伝承もあるようですが、少し無理があるのかもしれません。 ただ、頼朝の挙兵後に義時と八重姫が結婚したというのはあり得るのかもしれません。 |
江間四郎・江間小四郎と呼ばれた北条義時 北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 武内宿禰の生まれ変わり?〜北条義時の出生伝説〜 |
★三嶋大社と頼朝伝説 |
三嶋大社は、頼朝が源氏再興を祈願するため百日間の日参をしたという神社。 その日々の中には多くの伝説が生れました。 |
成願寺は、三嶋社に参詣する頼朝が立ち寄った草餅を売る茶店の嫗(おうな)のために建立したという寺。 |
荒木神社は、頼朝が参拝の度に社木に鞍を掛けたという言い伝えから「鞍掛明神」とも称されていたのだといいます。 |
右内神社は、三嶋大社の随神門として鎮座する社。 三嶋大社に日参していた頼朝が度々立ち寄っていたのだとか・・・ |
昼は人目をはばかるので、夜になってから安達盛長一人を連れて三嶋社参詣を続けていたという頼朝。 ある時、たいそうな疲労に襲われて、稲荷社の松の根もとで仮眠をとります。 以来、その松は「頼朝まどろみの松」と呼ばれ、稲荷社は「間眠神社」(まどろみじんじゃ)と呼ばれるようになったのだとか。 |
三嶋社に参詣する頼朝の後をつけてくる怪しい女。 頼朝が腕を切り落とすと地蔵尊だった・・・ 以来、地蔵尊は「手無地蔵」と呼ばれるようになったのだとか。 |
妻塚観音堂は、大庭景親の妻が祀られている堂。 頼朝を暗殺しようとした景親は、誤って妻を殺してしまったのだとか。 |
願成寺は、三嶋社に日参する頼朝が宿舎とした庵が始まりなのだとか。 |
宝鏡院は、頼朝の時代の寺ではありませんが、境内に置かれている笠置の石は、三嶋社を参詣する頼朝が笠を置いた石なのだとか。 |
三嶋社に日参した頼朝は、宗徳院の地蔵尊も祈願仏として詣でていたのだといいます。 |
百日間の日参をした際にこの井戸の水を飲んだのだとか・・・ |
法華寺には、頼朝が写経した般若心経が奉納されたのだと伝えられています。 |
三嶋大社を信仰した頼朝は、鎌倉の鶴岡八幡宮に分霊を勧請しています。 葉山町の森戸大明神や藤沢市の感応院の三島大明神も頼朝が勧請しました。 |
★山木館襲撃 |
1180年(治承4年)8月17日、挙兵した頼朝は、平家の目代山木兼隆を襲撃します。 |
香山寺は山木兼隆が建立した寺。 頼朝に討たれた兼隆の供養塔が建てられています。 |
皇大神社の相殿には山木兼隆が祀られています。 |
頼朝が源氏再興を祈願した三嶋大社にある旗挙げの碑。 |
守山八幡宮は、北条館の東、守山の中腹に鎮座。 頼朝が源氏再興の祈願をしたのだと伝えられています。 |
平治の乱後、伊豆守に任命されたのは源頼政。 頼朝が流されてきた頃には、子の仲綱へと引き継がれていたようです。 1180年(治承4年)4月9日、頼政と仲綱は以仁王の高倉御所を訪れ、「平家打倒の令旨」を引き出しています。 その令旨は4月27日に伊豆の北条館に届けられ、頼朝は石清水八幡宮を遥拝してから開いたのだと伝えられています。 しかし、間もなくその企てが平家の知られるところとなり、以仁王と頼政は園城寺に難を逃れますが、5月26日、平等院の戦いで討死しました。 |
頼政の妻菖蒲御前は伊豆国で生まれ、頼政が平等院で討死すると郷里に戻ったのだといいます。 西琳寺の弥勒菩薩は、菖蒲御前の稔侍仏と伝えられています。 |
毎年春に開催されている「鎌倉まつり」では、鎌倉宮で伊豆の国市子ども創作能「伊豆の頼朝」が上演されています。 「伊豆の頼朝」は、伊豆に流された頼朝が挙兵して、目代の山木兼隆を討つという物語。 |
★相模国進軍・安房国で再起 |
高源寺は、相模国へ進軍する頼朝軍の軍勢ぞろえの地と伝えられています。 相模国出陣の際、政子と大姫は走湯権現(伊豆山神社)の覚淵のところに身を寄せています。 相模国へ進軍 |
相模に進軍した頼朝は石橋山に布陣しますが、大庭景親・伊東祐親らの平家軍に大敗。 この戦いで政子の弟で義時の兄だった宗時が討死しました。 |
「かんなみ仏の里美術館」に収蔵されている「阿弥陀三尊像」は、北条時政が子の宗時の慰霊のために造立させたものと伝わります。 |
頼朝が石橋山で大敗すると、政子と大姫は秋戸郷に身を潜めています。 |
石橋山で大敗した頼朝は、安房国にわたって再挙し、鎌倉を本拠とします。 頼朝に敵対した大庭景親と伊東祐親は、富士川の戦いで捕らえられ、景親は斬首、祐親は三浦義澄に預けられていましたが、1182年(養和2年)2月14日、義澄邸で自ら命を絶ちました。 |
伊東祐親の次男で頼朝の命の恩人だった祐清も富士川の戦いで捕らえられますが、頼朝は助けてくれたことへの褒美を与えようとします。 しかし、祐清はそれを断り、平家に味方するため上洛したのだといいます。 |
神奈川県湯河原町は頼朝を手引きした土肥実平の本拠。 五所神社は頼朝が戦勝祈願した所とされ、毎年4月の「土肥祭」では、伊豆で挙兵した頼朝が土肥郷に入って石橋山に出陣する様子を再現した旗上げ行列が行われます。 |
★頼朝の異母弟・阿野全成 |
阿野全成は源義朝の七男(頼朝の異母弟)。 平治の乱後、醍醐寺に入っていましたが、頼朝が挙兵すると醍醐寺を出て鷺沼の旅館(習志野市)で頼朝に対面しました。 その後、北条時政の娘保子(阿波局・政子の同母妹)と結婚。 頼朝の次男実朝の養育係となりますが、1203年(建仁3年)、将軍頼家への謀反の疑いで八田知家に誅殺されました。 大泉寺は全成の館跡と伝えられています。 |
★頼朝の異母弟・源義経 |
源義経は源義朝の九男(頼朝の異母弟)。 平治の乱後、鞍馬寺に預けられますが、奥州平泉の藤原秀衡を頼って出奔。 頼朝が挙兵すると秀衡の反対を押し切って馳せ参じ、黄瀬川宿で頼朝と対面しました。 八幡神社には「対面石」が残されています。 その後、木曽義仲追討・一ノ谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いで活躍しましたが、頼朝と対立して再び藤原秀衡の庇護を受けます。 しかし、1189年(文治5年)閏4月30日、秀衡の子泰衡に衣川館を攻められ自刃しました。 |
修善寺温泉街の南側の鹿山(塔の峰)には、源義経像が・・・ |
全成と義経の母は常盤御前。 義朝の八男義円も常盤の子です。 清水寺を信仰していた常盤は、義朝が平清盛に敗れると、清水寺の千手観音(子安塔)に三人の子の無事を祈願したのだと伝えられています。 『平家物語』は、常盤の三人の子が助けられたのは清水観音の力によるもので、頼朝が死罪を免れて蛭ヶ小島に流罪となったのは八幡大菩薩(石清水八幡宮)の力によるものと伝えているようです。 |
★伊豆国の武将 |
工藤(狩野)茂光は、狩野荘を領し、伊豆第一と呼ばれた武将。 石橋山の戦いで討死。 墓は、北条宗時の墓と並んで建てられています。 工藤一族 |
田代信綱は、藤原氏で後三条天皇の末裔ともいわれ、母は工藤(狩野)茂光の娘。 石橋山の戦いに敗れ、真鶴から安房国へ向かった頼朝主従七騎のうちの一人。 |
加藤景廉は、田代信綱の祖父工藤(狩野)茂光とともに大島の源為朝を征伐したと伝えられている武将。 山木館襲撃では、佐々木盛綱とともに伊豆国目代の山木兼隆を討ち取りました 比企能員の変では、比企能員を暗殺した仁田忠常を誅殺しています。 江戸時代に活躍した遠山の金さんは景廉の子孫。 鎌倉の極楽寺三世の順忍も景廉の子孫。 |
仁田忠常は、曽我兄弟の仇討事件で曽我祐成を討ち取り、比企能員の変では天野遠景とともに比企能員を暗殺しました。 比企能員の変後、加藤景廉に誅されています。 |
天野遠景は、足立遠元の猶子だったと伝えられる武将。 石橋山の戦いでは、加藤景廉・佐々木高綱・堀親家らとともに奮戦し、富士川の戦いでは伊東祐親を捕えています。 壇ノ浦の戦いで活躍し、戦後、九州追捕使に任命されました。 比企能員の変では仁田忠常とともに比企能員を暗殺。 東昌寺(伊豆の国市)に伝えられている薬師腹篭の像は、遠景の念持仏と伝えられています。 |
堀親家は、頼朝の娘大姫の許嫁だったという木曽義高(木曽義仲の子)の誅殺を命じられた武将。 比企能員の変後、工藤行光に誅殺されました。 定林寺(伊豆市)に供養塔が建てられています。 |
『吾妻鏡』によると、石橋山の戦いで大敗した頼朝は椙山の杉山の堀内という辺りに陣取りました。 加藤景廉と大見実政が三千騎を率いて追いかけて来る大庭景親の軍を防ぎます。 景廉の父景員や実政の兄政光も子や弟を思って留まって防戦しました。 加藤光員・佐々木高綱・天野遠景・天野光家・堀親家・堀助政も同様に戦い、多くの兵を討ち取りました。 頼朝も何度も戦い、放つ矢は百発百中で、羽まで突きとおり、多くの兵を射殺したのだとか。 |
石橋山の戦いに敗れた頼朝は、一時、箱根権現(箱根神社)に身を潜めました。 当時の別当(長官)は行実。 行実の父良尋は、頼朝の祖父為義や父義朝と親交があったのだそうです。 京都にいた行実が父の跡を継いで箱根権現の別当に就任する際、為義は「東国の家人の召集権」を、義朝は「駿河、伊豆の家人の召集権」を行実に与えたのだと伝えられています。 |
★願成就院 |
願成就院は、北条時政が頼朝の奥州征伐の祈願所として建立した寺院。 時政・義時・泰時の三代にわたって整備された伽藍は、平泉の毛越寺を模したものだったと伝えられています。 大御堂の阿弥陀如来・毘沙門天・不動明王・矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制咤迦童子(せいたかどうじ)の諸像は、胎内造像銘札により運慶の真作。 |
願成就院の諸像を像立した運慶は奈良仏師。 奈良東大寺の金剛力士像で知られています。 北条時政のライバルだった和田義盛の浄楽寺(横須賀市)にも5体の運慶の真作が伝えられています。 称名寺(横浜市金沢区)の塔頭光明院には、源実朝の養育係を務めた大弐局の発願という大威徳明王像が伝えられています。 |
★源範頼と安達盛長の墓 |
源範頼は、頼朝の異母弟。 木曽義仲追討・一ノ谷の戦い・壇ノ浦の戦いで活躍しましたが・・・ 1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りの際に起こった曽我兄弟の仇討ちをきっかけに謀反の疑いをかけられ、修禅寺に幽閉された後、梶原景時らに攻められて自刃したのだと伝えられています。 |
安達盛長は、頼朝が蛭ヶ小島に配流の身の頃から仕えていた側近。 頼朝亡き後に設置された「13人の合議制」の一人。 何故、修禅寺に墓が建てられているのかは不明ですが、盛長の娘が源範頼の妻だったということに関係があるのかもしれません。 |
安達盛長の妻は、比企尼の長女。 源範頼の妻は盛長の娘。 範頼が修禅寺に幽閉されると、範頼の子の範円と源昭は、比企尼の助命嘆願で救われ、比企尼から横見郡吉見庄(現在の埼玉県吉見町)を分与されたのだといいます。 吉見町は、平治の乱後、範頼が住んだ地と伝えられ、範頼が隠れ住んだという安楽寺や範頼館跡とされる息障院があります。 また、荒川を挟んだ鴻巣市には盛長館跡と伝えられる放光寺があります。 範円と源昭は、ときがわ町の慈光寺の別当を勤めたとも・・・ 源昭は調布市の深大寺の別当も兼ねたのだとか。 |
源範頼は修禅寺で自刃したとされる一方で、各地に生存説が残され、埼玉県北本市の蒲桜や横浜市金沢区の太寧寺に伝えられています。 |
建久年間、安達盛長は相模国愛甲郡三田村を領していたのだといいます。 厚木市三田には、盛長が鶴岡八幡宮を勧請して再建したという八幡神社があります。 厚木市飯山の金剛寺には、盛長のものと伝わる五輪塔があります。 |
★源頼家の墓 |
二代将軍源頼家は、1203年(建仁3年)に起こった比企能員の変後、修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されました。 |
光照寺は、願成就院の支院だったという寺。 伝説によると、北条政子は病気となった頼家の容貌を彫らせた面を鎌倉へ送るよう武田信光に命じたのだといいます。 しかし、面が鎌倉に届く前に頼家は暗殺されてしまいました。 光照寺には、信光が鎌倉へ運ぼうとしていたという「病相の面」が残されています。 |
信光寺は、頼家の菩提を弔うために武田信光が建てたのだと伝えられています。 |
修禅寺の指月殿は、北条政子が頼家の冥福を祈るために建立したと伝えられています。 |
死相の面 (修禅寺) |
病相の面 (光照寺) |
北条政子は、頼家の冥福を祈るため、鶴岡八幡宮に「元版一切経」を奉納しています。 現在、「元版一切経」は、東京の浅草寺の宝蔵門に収蔵されています。 |
享年23(満21歳)という若さで亡くなったため、事跡の少ない頼家ですが、京都最古の禅寺建仁寺は頼家の援助によって栄西が開いた寺。 鎌倉の壽福寺も頼家の開基とする説があります。 |
★北条時政の墓 |
頼朝亡き後、梶原景時・比企能員・畠山重忠を滅ぼして鎌倉幕府の実権を握った北条時政でしたが・・・ 1205年(元久2年)、後妻の牧の方と将軍源実朝への謀反を企てて伊豆国追放となり(牧氏の変)、1215年(建保3年)1月6日、北条の地で没しました。 |
★北条義時夫妻の墓 |
北条義時は、和田義盛を滅ぼし、後鳥羽上皇が起こした承久の乱を鎮め、執権政治の基礎を築きました。 1224年(貞応3年)6月13日に急死。 頼朝の法華堂の東の山上に葬られています。 北條寺にある義時と後妻伊賀の方の墓は、のちに義時の子泰時が建てたものと伝えられています。 |
鎌倉幕府滅亡・北条氏滅亡 |
源頼朝が樹立した鎌倉幕府は、1333年(元弘3年)5月、後醍醐天皇の綸旨を受けて上野国の生品神社で挙兵した新田義貞によって滅ぼされました。 時政・義時・泰時と続いた北条氏も九代目の高時が鎌倉の東勝寺で自刃したことにより滅亡しました。 新田氏の祖義重は、徳川家康の先祖といわれています。 |
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