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北條寺(ほうじょうじ)は、伊豆の国市南江間にある臨済宗建長寺派の寺院。 山号は巨徳山(ことくさん)。 鎌倉幕府二代執権北条義時の創建と伝えられている。 本尊は、源頼朝が源氏再興を祈願したという「木造観世音菩薩坐像」(県指定文化財)。 義時の父時政も頼朝の挙兵時に武運長久を祈願したのだと伝えられる。 その他、運慶作と伝わる「木造阿弥陀如来坐像」、義時の姉北条政子の寄進と伝わる「牡丹鳥獣文繍帳」(県指定文化財)を所蔵。 境内には、北条義時夫妻の墓がある。 |
北条義時は、大蛇に呑み込まれて死んだ嫡子安千代丸の菩提を弔うため、北條寺を建てたのだという。 |
北条義時の嫡子安千代丸と大蛇の伝説 |
北江間にある珍場神社には、嫡子安千代丸の霊が祀られている。 |
正面から向かって右が北条義時、左が妻(伊賀の方)の墓。 『吾妻鏡』によれば、北条義時は、1224年(貞応3年)6月13日、62歳で急死。 鎌倉の源頼朝墓の東の山上に葬られたという(参考:北条義時の法華堂)。 北條寺の墓は、義時の子で三代執権北条泰時が北条氏発祥の地に追善のために建てたものと伝えられている。 |
北條寺の案内板には、義時の妻は佐伯氏の娘と記されているが、墓石の側面には藤原朝光の娘と彫られている。 藤原朝光は藤原秀郷の後裔で、伊賀守に任ぜられてからは伊賀氏を称した。 『吾妻鏡』によると、朝光は1215年(建保3年)9月14日に亡くなり、二階堂行政邸の裏山に葬られ、義時も立ち会ったのだという(朝光の妻は二階堂行政の娘)。 朝光の娘(伊賀の方)は、義時が前妻の姫の前と離婚したのちに継室となったとみられ、『吾妻鏡』には、1205年(元久2年)6月21日、義時室(伊賀守朝臣女)が男子(のちの政村)を出産したことが記されている。 『続群書類従』に載せられている「佐伯系図」には、朝光の女子は政村の母と記されているらしい。 義時の死後、伊賀の方は兄光宗とともに謀反を起こしたとされ、伊豆国に流された(伊賀氏の変)。 『吾妻鏡』によると、1224年(元仁元年)12月24日、伊豆から鎌倉へ飛脚が到着し、伊賀の方の危篤が知らされている。 |
伊賀氏の変は、北条政子のでっちあげという説があり、北条泰時は、伊賀の方と光宗の謀反を否定していたのだという。 伊賀の方は、伊豆国へ追放されて間もなく死去したものと考えられるが、兄の光宗は、政子死後の1225年(嘉禄元年)12月22日に許されて所領も回復されている。 |
北条義時の正室:姫の前 伊賀氏の変 北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村 北条政子の前に現れた伊賀の方の怨霊 承久の乱で討死した伊賀の方の弟伊賀光季 江間四郎・江間小四郎と呼ばれた北条義時 |
義時の嫡男だったという安千代が池で大蛇に襲われて亡くなった際、運慶に命じて造らせたと伝えられている像。 北条義時の十三回忌に造立されたとも伝えられる。 |
北条時政邸跡 (北条郷) |
北条義時邸跡 (江間郷) |
北条義時は、北条郷を本拠とした豪族・北条時政の次男。 義時は分家の江間家の初代と考えられている。 |
守山八幡宮 |
豆塚神社 |
北条郷の守山八幡宮と江間郷の豆塚神社は、延喜式神名帳に記載されている石徳高神社とされている。 |
願成就院は、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立した寺院。 |
北條寺の前を流れる狩野川の対岸には、北条館跡とされる史跡がある。 |
静岡県伊豆の国市南江間862−1 伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅より徒歩25分 |
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