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2005年(平成17年)、源頼朝墓東隣の山の中腹から北条義時のものと考えられる法華堂跡が発掘された。 調査の結果、1辺が8.4メートルの正方形の三間堂であったと推測されている。 北条義時は、1224年(元仁元年)6月13日に死去。 6月18日に葬送され、『吾妻鏡』には「前奥州禅門の葬送。故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記録されている。 前奥州禅門は北条義時、故右大将家は源頼朝のこと。 8月8日には、走湯山の浄蓮房を導師として墳墓堂の供養が行われ、墳墓堂は新法華堂と呼ばれたのだという。 |
2022年(令和4年)、建物の柱や周囲の雨落ち溝が再現された。 |
「AR北条義時法華堂アプリ」をダウンロードすると、CG法華堂を観察することができる。 |
北条義時は、源頼朝の側近として活躍し、頼朝亡き後の御家人による政権争奪に深く関わった。 1205年(元久2年)の畠山重忠の乱で畠山重忠を討ち、その後発覚した父時政の後妻牧の方の謀叛をきっかけに時政を鎌倉から追放し、政所別当となった(牧氏の変)。 1213年(建暦3年)には、侍所別当の和田義盛を滅ぼして、政所別当と侍所別当を兼任し、幕府で最も重要な職を独占する(和田合戦)。 和田合戦後、土肥実平の孫惟平が地頭職を務めていた山内荘が、北条義時に預けられ、以後、山内荘は北条得宗家の所領として管理され、北条時頼以降、建長寺・円覚寺をはじめとする禅刹が建立されていくこととなる。 1219年(建保7年)の将軍源実朝の暗殺事件では、裏で暗殺者である公暁を操っていたという説もあるが定かではない(源実朝の暗殺(源氏の滅亡))。 1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇が起こした承久の乱を鎮圧。 北条執権体制を確立した義時は、1224年(元文元年)6月13日、62歳で急死したが、暗殺されたのではないかという説もある。 北条義時の最期(吾妻鏡) |
北条義時やぐら (鎌倉市) |
北条義時夫妻の墓 (伊豆の国市) |
近くに「よしときさん」と呼ばれ、義時の墓とされてきた「やぐら」も存在している。 伊豆の国市の北條寺には、子の北条泰時が建てたという義時と後妻伊賀の方の墓がある。 |
義時の死後、伊賀光宗と後妻伊賀の方(光宗の妹)が、政村(義時の五男、母は伊賀の方)を執権にし、娘婿の一条実雅を将軍に据えようと企て、流罪となっている(伊賀氏の変)。 義時は伊賀の方に暗殺されたという噂までとんでいたというが、一方で伊賀氏の謀反は北条政子のでっちあげという説もある。 北条義時は毒殺されたのか? |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
釈迦堂 (鎌倉・廃寺) |
大円寺 (東京目黒区) |
釈迦堂は、三代執権北条泰時が父義時の供養のために建てた寺(廃寺)。 東京の目黒区にある大円寺の清凉寺釈迦如来が釈迦堂の本尊ではなかったのかという説がある。 |
北条義時法華堂跡とされる平場の上には、大江広元、その子毛利季光と、島津氏の祖島津忠久の「やぐら」がある。 |
北条義時の法華堂跡の山裾には、宝治合戦で敗れた三浦泰村一族を葬ったとされる「やぐら」が残されている。 |
北条義時法華堂跡の下にある村田清風句碑。 清風は長州藩士。毛利氏の小姓として仕え、藩政改革に手腕を発揮した。 |
鎌倉市西御門2丁目 鎌倉駅東口より徒歩15分 |
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