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法華堂跡に残されている三浦泰村一族を葬ったとされる「やぐら」。 1247年(宝治元年)、五代執権北条時頼と戦って敗れた三浦泰村ら一族約500人は、源頼朝の法華堂で自刃した(宝治合戦)。 「やぐら」前面の平場は、北条義時の法華堂跡と考えられている。 |
宝治合戦は、1247年(宝治元年)に起こった北条時頼と三浦泰村との戦い。 泰村は、以前より前将軍藤原(九条)頼経を中心とする反執権勢力に近づくなど不穏な動きをみせていたため、時頼からは危険視されていた。 そんな中、時頼の外戚である安達景盛、義景父子が兵を起こし、館を焼かれた三浦泰村ら一族は、頼朝の法華堂に籠って最期を遂げた。 法華堂に集まった三浦一族は、頼朝の御影の前に整列し、毛利季光が法事讃を唱えたのだという。 最期の様子は、法華堂の天井裏に潜んでいたという承仕法師によってその凄惨さが伝えられているが、中でも三浦光村は自らの顔を刀で削り正体をわからなくしてから自刃したのだと伝えられている。 |
鎌倉十橋の一つ筋違橋は宝治合戦の戦端が開かれた場所なのだとか。 |
毛利季光は、大江広元の子。 妻は三浦泰村の妹。 宝治合戦に当たって「兄を見捨てる事は、武士のする事ではない」と妻に説得されて三浦氏についた。 三浦一族とともに自刃したが、子孫は残存して、のちの戦国武将・毛利元就を出している。 |
毛利季光の墓 (法華堂跡) |
三島神社 (厚木市) |
厚木市の三島神社は、毛利氏発祥の地に建つ社。 |
北条泰時死後の政局と北条時頼〜宝治合戦〜 三浦氏の滅亡〜法華堂跡〜 |
鎌倉市西御門2丁目 鎌倉駅東口より徒歩15分 |
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