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源頼朝墓の東側の山の中腹に並ぶ三つの「やぐら」は、中央が大江広元、左がその子で毛利氏の祖となる毛利季光、右が源頼朝の子ともいわれる島津忠久の墓。 島津氏と毛利氏は、祖先を顕彰するため、源頼朝墓のそばに墓を設けたものと考えられる。 |
大江広元は、源頼朝の政務の側近として「政所別当(長官)」を務めた人物。 1225年(嘉禄元年)6月10日没。 この墓は、1823年(文政6年)、長州藩によって建てられたもの。 十二所にも大江広元のものと伝わる墓がある(伝大江広元墓)。 |
大江広元邸跡碑 |
伝大江広元墓 |
赤染衛門は平安中期の女流歌人。 大江匡衡と結婚し中宮・藤原彰子に仕えた。 匡衡との間に生まれた子は挙周。 挙周の六代孫が広元。 |
毛利季光は、大江広元の四男。 三浦泰村の妹を妻とし、1247年(宝治元年)の宝治合戦で三浦方につき、三浦一族とともに源頼朝の法華堂で自刃した。 季光の娘は北条時頼の正室となっていたが、戦後離別したという。 季光の墓は、1921年(大正10年)、鶴岡八幡宮西側の鶯ヶ谷の山にあったものが移されたといわれている。 |
厚木市下古沢の三島神社は、毛利季光の屋敷跡の一画だと伝えられている。 季光の四男経光は、宝治合戦後も生き残り、その子孫が戦国時代に中国地方を制覇した毛利元就を生んだ。 |
法華堂跡では、毛利氏の家紋「一文字三つ星」を見ることができる。 |
島津忠久は、九州島津氏の祖で、源頼朝の子ではないかとされているが定かではない。 1227年(嘉禄3年)6月18日没。 江戸時代には、島津藩主や家臣が墓参したという。 現在の墓は、1779年(安永8年)に修造されたもので、源頼朝の墓とともに島津重豪が整備したもの。 |
小町神社 (厚木市) |
懐嶋の碑 (茅ヶ崎市) |
北条義時法華堂跡の下にある村田清風句碑。 清風は長州藩士。 毛利氏の小姓として仕え、藩政改革に手腕を発揮した。 |
鎌倉市西御門2丁目 鎌倉駅東口より徒歩15分 |
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