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茅ヶ崎市西久保にある「懐嶋山の碑」は、「えな塚」とも呼ばれ、源頼朝と丹後局との間に生まれた子の胎盤(胞衣(えな))が納められたと伝えられている。 頼朝の子を身籠った丹後局は、北条政子に知られてしまったことから、懐嶋郷の領主・大庭景能(景義)の館(懐嶋館)に匿われ、その後、西久保の桜屋敷に移って男子を出産した。 三郎と名付けられた男子は、1185年(文治元年)、7歳のときに頼朝と対面し「忠久」と名乗った。 この忠久が、のちに薩摩国を本拠地とした島津氏の祖なのだという。 別の言い伝えでは、大庭景能の墓だとも・・・。 「懐嶋山の碑」は、宝生寺の所有。 |
神明大神宮 (懐嶋館址) |
宝生寺 |
妙運寺 |
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源頼朝と丹後局の伝説は各地に残されているが、丹後局は伊豆の蛭ヶ小島に流された頼朝を支援しつづけた比企尼の娘で、頼朝の側近だった安達盛長の妻。 『吾妻鏡』によれば、1182年(養和2年)3月9日、北条政子の安産祈願として執り行われた「着帯の儀」では、頼朝自らが帯を締め、丹後局がその手伝いをしたという。 8月12日に頼家が誕生すると丹後局の妹が乳母となっている。 島津忠久の本名は惟宗忠久。 丹後局が母であることは事実のようだが、父は惟宗広言あるいは惟宗忠康という説が有力。 丹後局は惟宗広言と離縁した後、安達盛長に嫁いだのだという。 |
小町神社 (厚木市) |
住吉大社 (大阪市) |
厚木市の小町神社は、北条政子に命を狙われ逃れた丹後局が建てたと伝えられている。 その後、西国へと逃れた丹後局は住吉大社の境内で出産したという言い伝えも残されている。 |
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