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住吉大社は、200年(仲哀天皇9年)、三韓征伐を行った神功皇后(じんぐうこうごう)が七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道)に帰還した際、神託により住吉三神を祀ったことに始まる。 遣隋使・遣唐使の守護神として崇敬され、多田源氏の祖・源満仲は、970年(天禄元年)、住吉大社に参籠し、神託により摂津国多田(兵庫県川西市多田)を本拠地としている。 1000年(長保2年)、一条天皇の生母・藤原詮子が石清水八幡宮と四天王寺とともに参詣。 1003年(長保5年)には詮子の弟・藤原道長が参詣。 1031年(長元4年)、道長の娘・藤原彰子は華やかな行列を組んで石清水八幡宮と四天王寺とともに参詣している。 1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿落慶供養参列のため上洛していた源頼朝は、流鏑馬を奉納したと伝えられている。 摂津国一之宮。 |
第一本宮:底筒男命 (そこつつのをのみこと) 第二本宮:中筒男命 (なかつつのをのみこと) 第三本宮:表筒男命 (うはつつのをのみこと) 第四本宮:息長足姫命 (おきながたらしひめのみこと・神功皇后) |
本殿四棟は全て1810年(文化7年)に造られた建物で国宝。 |
奥から第一・第二・第三本宮が並び、第三本宮の右が第四本宮という配置。 |
反橋 (太鼓橋) |
角鳥居 |
五所御前 |
石舞台 |
一寸法師 |
招福猫 |
住吉大社は、平安時代中頃から「和歌の神」として信仰されるようになり、住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂の三柱は「和歌三神」(わかさんじん・和歌の守護神)と称された。 ある天皇は行幸の際、 「我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いく代へぬらむ」 と詠んだのだという。 |
赤染衛門は、藤原道長の正妻・源倫子や娘の藤原彰子に仕えた女流歌人。 紫式部や和泉式部の同僚。 息子の挙周が病に伏した際、住吉大社に和歌を奉納すると、たちまちに病が治ったのだという。 |
神主の津守長盛が京都に赴いて院にした報告によると、1185年(元暦2年)2月16日、住吉社で平家追討の祈願が行われ、深夜になって本殿より神鏑が西方を指して飛び去ったのだという。 それから間もない2月19日、源義経が屋島に拠る平家を奇襲、翌3月24日には、壇ノ浦で滅亡させた。 |
源義経は、源平の戦いで平家を滅ぼした後、兄頼朝と不仲となって都を落ち、吉野山に逃亡する前に、神主の津守長盛の許で一夜を過ごしたのだという。 その後、義経は、長い逃亡生活を送り、奥州平泉の藤原秀衡の許に落ち延びたが、秀衡死後の1189年(文治5年)閏4月30日、秀衡の跡を継いだ泰衡に衣川館を襲撃されて最期を遂げている。 |
※ | 津守長盛の母は源為義の娘で、源頼朝や源義経の従兄弟という説がある。 |
義経よろい掛け松 (四天王寺) |
吉野山 |
吉野山に逃れる途中の義経は四天王寺に立ち寄ったとされ、四天王寺には義経鎧掛け松の伝説が残されている。 |
1195年(建久6年)4月27日、東大寺の大仏殿落慶供養参列のため上洛していた源頼朝は、梶原景時を代参させ、幣帛(布)を納め、馬を奉納している。 この時景時は、「我君の手向の駒を引つれて行末遠紀志るしあらはせ」という和歌一首を釣殿の柱に貼ったのだという。 |
伝説によると、源頼朝の子を身籠った丹後局は、北条政子から逃れるため、本田次郎親経の手引きで摂津住吉に至った。 そこで産気づいた丹後局は、住吉明神の大石を抱いて男児を出産。 のちにそれを知った頼朝は、その子に薩摩・大隅二か国を与えた。 その子というのが島津氏の祖・忠久なのだという。 |
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府三代将軍の源実朝は、1209年(承元3年)7月5日、夢のお告げを受けて、藤原定家の門弟内藤知親を使者として住吉大社に和歌二十首を奉納した。 |
住吉大社は、紫式部の『源氏物語』〜明石の巻〜に描かれた社。 須磨で暴風雨に遭った光源氏が祈願した神。 愛人の明石の君は年に二度参詣していた・・・ |
南海本線「住吉大社駅」から徒歩3分 南海高野線「住吉東駅」から徒歩5分 阪堺線「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ |
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