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衣川館(ころもがわのたち)は、源平合戦の英雄・源義経が最期を迎えた場所。 高館(たかだち)、判官館(はんがんだて)とも呼ばれる。 もとは奥州藤原氏の居館があった場所で、兄源頼朝と対立し、逃亡の末、藤原秀衡を頼った義経は、その一画に居館を与えられた。 1187年(文治3年)10月29日、秀衡が亡くなると、跡を継いだ泰衡は、頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、衣川館を攻め、義経を自刃に追い込んだ。 のちの1683年(天和3年)、仙台藩主・伊達綱村によって館跡に義経堂(ぎけいどう)が建てられ、内部には義経の木像が安置された。 |
平安時代の束稲山(たばしねやま)には、千本の桜が植えられ、平泉を訪れた西行は「吉野のほかにこんな名所があるとは」と驚いたのだという。 |
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」 松尾芭蕉が「おくのほ道」に引用した杜甫の詩。 義経が滅び、藤原氏の王国が滅んでも、山や川は昔のまま・・・ |
1986年(昭和61年)、藤原秀衡、源義経、武蔵坊弁慶800年遠忌を期して造立された供養塔。 1189年(文治5年)閏4月30日、藤原泰衡に襲撃された義経は持仏堂に籠り、正妻の郷御前と4歳の娘を殺害した後、自害した(享年31)。 |
中尊寺の月見坂入口には弁慶の墓と伝わる塔が残されている。 弁慶の死後、京都の三条京極にあった弁慶石が高館に移されたという伝承もある。 |
金鶏山の麓には、義経の妻・郷御前と娘の墓と伝わる五輪塔が置かれている。 |
中尊寺の弁慶堂には、衣川館で自害した源義経と仁王立ちのまま息絶えたという弁慶の像が安置されている。 |
1689年(元禄2年)5月13日、この地を訪れた松尾芭蕉は、100年にわたり栄華を極めた奥州藤原氏や、この地で自刃した源義経を思い、 「夏草や 兵共が 夢の跡」 と詠んだ。 (参考:中尊寺金色堂、毛越寺) |
鹽竈神社 (塩竃市) |
文治の燈籠 (鹽竈神社) |
鹽竈神社は奥州藤原氏が崇敬した陸奥国一宮。 文治の燈籠は、源義経を庇護した藤原秀衡の三男・忠衡が寄進したもの。 松尾芭蕉は、5月9日に鹽竈神社を参拝し、忠衡を「勇義忠孝の士」を讃えている。 |
高館義経堂の下にある清水は、松尾芭蕉の門人・曾良が 「卯の花に兼房みゆる白毛かな」 と詠んだことから「卯の花清水」と名付けられた。 『義経記』によると、兼房は源義経の忠臣。 最後まで奮戦した白髪の老臣だったという。 兼房に自刃を促された義経は、今剣(いまのつるぎ)という短刀で、左の胸から刀をたて、背中に通ずるまで掻き切り、疵口を三方に切り破って、内臓を引き出し、刀を衣の袖で拭ったのだとか・・・ 今剣は、六寸五分(約20cm)で平安時代の刀工・三条宗近の作。 鞍馬寺に奉納された刀は、のちに義経に与えられた。 守り刀として大切にしていた義経は、源平の戦いでも身に着けていたのだという。 |
自刃した義経の首は新田高平によって鎌倉まで運ばれ、6月13日、腰越の浜で和田義盛と梶原景時が立ち会い首実検が行われた。 その後、義経の首は、藤沢に葬られたと伝えられている。 |
義経を祀る神社 白旗神社 (藤沢市) |
首洗の井戸 義経首洗井戸 (藤沢市) |
衣川館で自刃した義経の魂は、幼少期を過ごした鞍馬寺へと戻り、遮那王尊として祀られたのだという。 |
義経の舅河越重頼の居館だった河越館跡の一角にある常楽寺には、2006年(平成18年)に重頼・郷御前・義経の供養塔が建てられた。 重頼は、頼朝と対立した義経が京を落ちて行方をくらませると、舅という理由で誅殺されている。 |
岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14 JR平泉駅から徒歩20分程度 |
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