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源義経の正妻は、河越重頼の娘・郷御前(さとごぜん)。 母は源頼朝の乳母比企尼の次女(河越尼)。 『吾妻鏡』によると・・・ 1184年(元暦元年)9月14日、義経に嫁ぐために上洛。 そのため、京姫とも呼ばれる。 この婚姻は以前より決まっていたのだと伝えられている(頼朝の命によるもの)。 |
郷御前が義経に嫁いだ翌1185年(元暦2年)3月、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすが・・・ 許可なく官位を受けたことなどの問題で兄・頼朝の怒りを買ってしまう。 5月、義経は、平家の大将・平宗盛を護送し、鎌倉に凱旋しようとするが、頼朝は義経が鎌倉に入ることを許さなかった。 6月9日、義経は再び宗盛を護送して京都へと帰るが、「関東(頼朝)において怨みを成すの輩は義経に属すべき」と吐いたのだと伝えられている。 10月17日には、頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が義経の六条室町の邸を襲撃(参考:土佐坊昌俊の義経襲撃)。 義経は昌俊を返り討ちにするが、11月3日、都を落ちなければならなくなる。 11月12日には、郷御前の父・河越重頼が義経の舅であることを理由に領地没収された(後に、重頼は嫡男重房と共に誅殺されている。)。 この頃、郷御前がどうしていたのかは不明だが、『吾妻鏡』の記録からすると、1186年(文治2年)に懐妊したものと考えられるので、京都に戻った義経とどこかに潜伏していたのかと思われる。 |
比叡山 |
興福寺 |
文治2年頃の義経は、比叡山の僧兵や興福寺の聖弘に匿われていたという記録が『吾妻鏡』にある。 郷御前が一緒だったかどうかは不明。 |
源義経を匿った比叡山の僧兵 源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘 |
その後、頼朝に追われ続けた義経は、1187年(文治3年)2月10日、伊勢・美濃などを経て奥州平泉の藤原秀衡を頼る。 郷御前と子も一緒だった。 一行は、山伏や稚児に変装していたのだという。 |
それから間もなく、秀衡が亡くなり、奥州藤原氏の家督は、次男の泰衡へと引き継がれた。 秀衡は「義経を主君として、頼朝の攻撃に供えるように」と遺言していたというが・・・ 頼朝の圧力に屈した泰衡は、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、自刃に追い込んでしまう。 義経は持仏堂に入って、郷御前と4歳の娘を殺してから自刃したのだと伝えられている。 平泉町の金鶏山の麓にある千手堂には、郷御前と4歳の娘の墓が建てられている。 |
郷御前の父河越重頼の居館だった河越館跡の一画にある常楽寺には、2006年(平成18年)に重頼・郷御前・義経の供養塔が建てられた。 重頼は、頼朝と対立した義経が京を落ちて行方をくらませると、舅という理由で誅殺されている。 |
義経をとりまく女性では、静御前が知られている。 静御前も鎌倉で義経の子を出産しているが、男子だったため、頼朝の命により由比ヶ浜で殺害された。 義経の子については諸説あるようだが、『吾妻鏡』に記されているのは、郷御前と静御前の子のみ。 ただし、義経が1187年(文治3年)2月10日に平泉に赴いたときの『吾妻鏡』の記事には、「妻室男女を相具す」とあることから、郷御前は女子のほかに男子も産んでいたとも考えられる。 |
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