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土佐坊昌俊は源頼朝に仕えた僧・武将。 昌俊は、奈良興福寺金剛堂の堂衆だったが、大和国針の庄の代官を夜討ちして捕らえられ、土肥実平に預けられた。 実平とともに関東に下向したのち頼朝に臣従していたのだという。 一説には源義朝に仕えた金王丸と同一人物とも。 1185年(文治元年)10月17日、頼朝の命により、京の堀川館にいる源義経に夜襲をかけたが逆に殺された(参考:土佐坊昌俊の義経襲撃)。 |
『吾妻鏡』によれば、1185年(文治元年)10月9日、頼朝は御家人を集め、京にいる義経を誅する者を募った。 多くの者が辞退する中、昌俊は、もしものときは年老いた母や幼い子供たちに情けを掛けてやって欲しい旨を頼朝に申し上げた上で、この役を引き受けた。 そして、10月17日、60数騎の軍勢で義経のいる堀川の館を襲撃(参考:土佐坊昌俊の義経襲撃)。 しかし、義経は、事前に襲撃を察知していたと考えられ、昌俊は捕らえられて六条河原で梟首された。 襲撃を受けた翌日、義経が後白河法皇より頼朝追討の宣旨を受けると、10月24日、頼朝は、勝長寿院での父義朝の供養を終えた後、その席に参列した御家人たちに、直ちに義経討伐を命令している。 |
※ | 昌俊による義経襲撃は、頼朝が義経を挑発するためのものとも考えられている。 |
六条堀川館跡 (左女牛井之跡) |
若宮八幡宮社 (六条堀川館跡) |
六条堀川館は、源頼義・義家・為義・義朝・義経の邸宅で、「源氏累代の館」と呼ばれていた。 若宮八幡宮は、頼義が邸内に石清水八幡宮を勧請した社。 |
冠者殿社は、土佐坊昌俊を祀る社で、八坂神社の境外末社。 |
土佐坊昌俊は、渋谷重国の子(あるいは弟)で金王丸という説がある。 金王丸は、平治の乱で源義朝に従い、平清盛に敗れて義朝が東国へと落ちびる際も同行していた。 『平治物語』によると、義朝が尾張国で長田忠致の裏切りにより暗殺されると、その事を京にいる常盤御前に知らせたのだという。 この時、常盤御前と一緒にいた幼い義経を見ている金王丸。 そのため義経を討つことができなかったのだとも伝えられる。 |
金王丸ゆかりの社 金王八幡宮 (東京渋谷区) |
渋谷重国の居城 早川城址 (綾瀬市) |
渋谷氏の菩提寺 長泉寺 (綾瀬市) |
源義朝最期の地 義朝の湯殿跡 (愛知県美浜町) |
金王桜は、源頼朝が父義朝に仕えた金王丸を偲んで鎌倉から移植したという桜。 |
常盤御前に源義朝の死を知らせた金王丸 土佐坊昌俊の義経襲撃 |
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