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徳川家康(とくがわいえやす)は、戦国の世に終止符を打った江戸幕府の初代将軍。 鎌倉幕府を開いた源頼朝を学んだともいわれ、265年間も続く泰平の世の基礎を築いた。 「遠祖は上野国を本拠とした新田氏」と称していたのだという。 |
新田氏は、河内源氏の嫡流源義国を祖とし、嫡男の義重が上野国の新田荘を本拠として新田氏を名乗ったのがはじまり。 そして、義重の四男義季は上野国の世良田荘徳川郷に住んで徳川氏を名乗ったのだという。 |
長楽寺 (太田市) |
世良田東照宮 (太田市) |
長楽寺は徳川義季が禅宗寺院として創建した寺だが、江戸時代には家康の側近天海が入山して天台宗に改められた。 世良田東照宮は、三代将軍家光が日光東照宮の旧社殿を移築して長楽寺境内に創建した。 |
大光院は、家康が徳川の繁栄と先祖の新田義重の追善のため、増上寺で修行した呑龍を招聘して開いた寺院。 |
三河国加茂郡松平郷は、徳川家康が祖と仰ぐ新田義重の子孫・親氏が辿り着いた地。 親氏は松平を名乗り、徳川将軍家の礎を築いた。 |
松平東照宮 (豊田市) |
高月院 (豊田市) |
松平東照宮は、松平郷の親氏の館跡に創建された家康と親氏を祀る神社。 高月院は親氏と松平宗家二代当主の泰親の菩提寺。 |
伊賀八幡宮は、松平宗家四代当主の親忠が松平家の守護神として創建。 のちに三代将軍徳川家光が家康を合祀している。 |
誕生 |
1543年(天文11年)12月26日、三河国の岡崎城で誕生。 父は松平広忠。 母は於大の方(伝通院)。 幼名は竹千代。 幼少期に母の於大の方は広忠に離縁され、久松俊勝に再嫁したため、長い間生き別れとなった。 |
駿府へ送られるはずが・・・ |
1547年(天文16年)、今川氏の人質として駿河国の駿府に送られるはずだったが、尾張国の織田信秀のところへ・・・ 2年間、尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。 |
人質となった竹千代〜織田・今川の人質だった徳川家康〜 |
父広忠が死去 |
1549年(天文18年)3月6日、父の松平広忠が死去。 岡崎城は今川氏に支配されることに。 |
駿府へ |
1549年(天文18年)、今川義元が織田信広の安祥城を攻略。 捕虜にした信広と竹千代の人質交換が行われ、竹千代は駿府へ。 竹千代は臨済寺や清見寺に住持した太原雪斎の教育を受けたのだという。 |
人質となった竹千代〜織田・今川の人質だった徳川家康〜 |
元服 |
1555年(天文24年)3月、今川義元を烏帽子親として静岡浅間神社で元服し、次郎三郎元信と名乗る。 今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶り、後に元康と改名。 「元」は今川義元、「康」は祖父の松平清康の一字。 |
三河?劇(みかわそうげき) |
1555年(弘治元年)、今川氏に対する国衆による大規模な反乱が起こる。 |
築山殿と結婚 |
1557年(弘治3年)、今川義元の姪(伯母とも妹ともいわれる)築山殿と結婚。 |
寺部城の戦い |
1558年(永禄元年)、今川氏から離反して織田信長に付いた鈴木重辰の寺部城を攻めて勝利。 この戦いが元康の初陣。 |
嫡男信康 |
1559年(永禄2年)、竹千代が誕生(のちの信康)。 |
上杉謙信が小田原城を攻撃 |
1560年(永禄3年)3月、越後国の上杉謙信が小田原城を包囲。 |
桶狭間の戦い |
1560年(永禄3年)5月19日、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る。 |
大樹寺で決意 |
桶狭間の戦いで元康は先鋒として出陣するが、義元が敗れると三河国の大樹寺で自害を考えたのだという。 住持の登誉天室に諭され生き抜く決意をし、今川氏が撤退した岡崎城に帰還し、今川氏から自立した。 |
母を迎える |
桶狭間の戦い後、岡崎城に帰還した元康は、母の於大の方を迎え入れるとともに、母の夫久松俊勝と於大の方が産んだ三人の子(康元・康俊・定勝)にも松平姓を与えて家臣として迎えた。 |
牛久保城合戦 |
1561年(永禄4年)4月11日、牛久保城を奇襲。 |
善明堤の戦い |
1561年(永禄4年)4月15日、吉良義昭と善明堤で戦って多くの家臣を失う。 |
藤波畷の戦い (ふじなみなわてのたたかい) |
1561年(永禄4年)9月13日、藤波畷の戦いで吉良義昭を降伏させる。 |
織田信長と同盟 |
1562年(永禄5年)、織田信長の清州城を訪れ、同盟を締結(清州同盟)。 |
正妻の瀬名が岡崎に |
1562年(永禄5年)、上ノ郷城合戦で捕らえた鵜殿氏長・鵜殿氏次と、駿府に人質として残されていた瀬名(築山殿)・竹千代・亀姫との人質交換が成立。 |
家康に改名 |
1563年(永禄6年)、元康から家康に改名。 |
元康から家康に改名・松平から徳川に改姓 |
三河一向一揆 |
1563年(永禄6年)に起こった反乱。 翌年鎮圧するが、三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い・伊賀越えと並ぶ家康の三大危機とされている。 |
次女徳姫が誕生 |
1565年(永禄8年)、側室の西郡局が督姫を産む。 |
徳川に改姓 |
1566年(永禄9年)までに、三河国をほぼ平定した家康は、三河守に叙任され、松平から徳川に改姓した。 正確には氏を藤原とし名字を徳川とした。 |
元康から家康に改名・松平から徳川に改姓 |
長男信康が結婚 |
1567年(永禄10年)5月、長男の信康が織田信長の娘徳姫と結婚。 |
稲葉山城の戦い |
1567年(永禄10年)、織田信長が斎藤氏の稲葉山城を落とす。 信長は小牧山城から稲葉山城に移り、岐阜城と改名している。 |
織田信長が上洛 |
1568年(永禄11年)10月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府を再興する。 |
武田信玄の駿河侵攻 |
1568年(永禄11年)12月、甲斐国の武田信玄が駿河国の今川領内や相模国の北条領内に侵攻。 家康は信玄と協定を結ぶが、翌年決裂。 |
掛川城を開城させる |
1568年(永禄11年)、遠江に侵攻して曳馬城を落とし、翌年2月には掛川城の今川氏真を降伏させる。 |
岡崎城から浜松城へ |
1570年(元亀元年)、岡崎城から浜松城に移る。 |
姉川の戦い |
1570年(元亀元年)6月、織田信長と連合して浅井長政・朝倉義景の連合軍と合戦。 |
甲相同盟 |
1571年(元亀2年)、破綻していた武田氏と北条氏の同盟が復活。 |
武田信玄の西上 |
1572年(元亀2年)10月3日、武田信玄が遠江国・三河国に侵攻を開始。 |
二俣城の戦い |
1572年(元亀3年)、遠江に信仰した武田信玄は、徳川方の只来城・天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城・匂坂城を攻略。 10月14日、家康は一言坂の戦いに敗れ、12月には二俣城を攻略された。 |
三方ヶ原の戦い |
1572年(元亀3年)12月、武田信玄を迎え撃って敗北。 |
武田信玄の死去 |
1573年(元亀4年)4月、三河国に進軍した武田信玄が病に倒れ、長篠城で療養していたが、武田軍は甲斐国へ撤退。 信玄は4月12日に死去した。 |
小谷城落城 |
1573年(元亀4年)9月1日、織田信長が浅井長政の小谷城を落とす。 |
長浜城 |
1573年(元亀4年)、羽柴秀吉が長浜城を築く。 |
秀康誕生 |
1574年(天正2年)2月8日、次男・於義伊(おぎい・のちの結城秀康)が誕生。 母は於万の方(長勝院)。 |
長勝院・お万の方〜結城秀康を産んだ徳川家康の側室〜 |
長篠・設楽原の戦い |
1575年(天正3年)5月21日、織田信長と連合して、武田勝頼と戦って勝利。 |
水野信元を誅殺 |
1575年(天正3年)12月27日、武田氏に内通していたとして水野信元が大樹寺で誅殺される。 |
上杉謙信が死去 |
1578年(天正6年)3月13日、越後国の上杉謙信が死去。 |
秀忠誕生 |
1579年(天正7年)4月7日、三男・長丸が誕生(のちの秀忠)。 母は西郷局(お愛の方)。 |
西郷局・お愛の方〜徳川秀忠を産んだ徳川家康の側室〜 |
北条氏と同盟 |
1579年(天正7年)、前年に甲相同盟が破綻したことで、徳川と北条が同盟を結ぶ。 |
正妻築山殿と嫡男信康を処分 |
1579年(天正7年)8月29日、正妻の築山殿を家臣に命じて殺害。 武田勝頼に内通した罪を織田信長に咎められたためで、9月15日には織田信長の要求により嫡男の信康に切腹を命ずる。 |
萬松院 (小田原市) |
西念寺 (東京都新宿区) |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 松平信康の介錯を命じられた服部半蔵 |
阿茶局 |
1579年(天正7年)、阿茶局が側室となる。 |
阿茶局・雲光院〜才知に長けた徳川家康の側室〜 |
甲州征伐 |
1582年(天正10年)3月、信長とともに武田勝頼を滅ぼし、駿河国を手に入れる。 |
安土城訪問 |
1582年(天正10年)5月、駿河国を拝領の礼のため安土城を訪問。 |
安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜 |
本能寺の変 |
1582年(天正10年)6月2日、明智光秀の謀反により織田信長が本能寺で討たれる(本能寺の変)。 信長の嫡男信忠は二条殿で自刃。 堺を遊覧していた家康は、知恩院での自刃も考えたようだが、伊賀越えで4日に三河国に辿り着き、岡崎城へ帰還。 家康と行動をともにしていた穴山梅雪は土民に襲撃されて命を落としている。 |
本能寺跡 |
二条殿址 |
本能寺 |
信長公廟 (京都:本能寺) |
山崎の戦い |
1582年(天正10年)6月13日、明智光秀が羽柴秀吉との合戦に敗北。 |
天正壬午の乱 |
1582年(天正10年)7月から10月にかけて、信長亡き後の旧武田領(甲斐・信濃・上野)をめぐって北条氏直と争う(天正壬午の乱)。 乱後、家康は三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国を領する大大名となる。 |
賤ヶ岳の戦い |
1583年(天正11年)4月24日、柴田勝家が羽柴秀吉に敗れ滅亡。 |
福松丸が誕生 |
1583年(天正11年)9月3日、側室の於都摩の方(下山殿)が五男福松丸(万千代)を産む。 |
小牧・長久手の戦い |
1584年(天正12年)、尾張国の小牧・長久手で羽柴秀吉と合戦。 秀吉は犬山城を本陣とし、家康は小牧山城を本陣として戦いが始まったが、和睦している。 |
秀吉が関白に |
1585年(天正13年)7月11日、羽柴秀吉が前関白の近衛前久の猶子として関白に叙任される。 翌年、姓を「藤原」から「豊臣」に改めている。 |
駿府に城を築く |
1586年(天正14年)、浜松城から駿府城に移る。 |
秀吉の妹と結婚 |
1586年(天正14年)5月14日、豊臣秀吉の妹朝日姫を正室として迎える。 |
豊臣秀吉に臣従 |
1586年(天正14年)10月27日、大坂城で豊臣秀吉に臣従することを表明。 |
西郷局死去 |
1589年(天正17年)5月19日、駿府城で側室の西郷局(秀忠の生母)が死去。 |
小田原征伐 |
1590年(天正18年)2月、豊臣秀吉が小田原攻めを開始。 秀吉が石垣山城を築くと、7月5日、北条氏直が降伏し、小田原城が開城される。 |
黒田官兵衛が譲り受けた『吾妻鏡』北条本〜小田原征伐〜 |
関東へ移封 |
小田原征伐後、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5か国を召し上げられ、北条氏の旧領の武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国・常陸国の関八州に移封され、江戸城を居城とする。 |
佐和山城 |
1591年(天正19年)、近江国の佐和山城が石田三成の城となる(時期については諸説ある)。 |
鶴岡八幡宮の修繕 |
1591年(天正19年)、豊臣秀吉の命により鶴岡八幡宮の修繕を担当。 |
朝鮮出兵 |
1592年(文禄元年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵を開始。 家康は名護屋城に在陣するが渡海せず。 |
豊臣秀頼の誕生 |
1593年(文禄2年)8月3日、豊臣秀吉に三男・拾丸(ひろいまる)が誕生。 母は浅井長政と織田信長の妹・お市の方の娘・茶々(淀殿)。 |
豊臣秀次の謀反 |
1595年(文禄4年)8月3日、豊臣秀吉の甥で豊臣家二代関白の豊臣秀次が自害。 |
秀忠が信長の姪・江と結婚 |
1595年(文禄4年)、嫡男秀忠が浅井長政とお市の方(信長の妹)との娘・お江(崇源院)と結婚。 |
朝鮮出兵の再開 |
1597年(慶長2年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵を再開。 今回も家康は渡海せず。 |
豊臣秀吉死去 |
1598年(慶長3年)8月18日、伏見城で豊臣秀吉が死去。 「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」と遺言したのだという。 伏見城には家康が入ることに。 |
増上寺 |
1598年(慶長3年)、江戸城の拡張に伴い増上寺を日比谷から芝に移す。 |
会津征伐 |
1600年(慶長5年)6月、会津の上杉景勝を征伐するため出陣。 |
鎌倉と徳川家康〜関ヶ原の戦いと星ノ井・鶴岡八幡宮・長谷寺〜 |
関ヶ原の戦い |
1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原で石田三成を中心とする反徳川軍を撃破。 |
福井藩初代藩主・結城秀康 |
1601年(慶長6年)、越前国北ノ庄を得た結城秀康が福井城を築き始める。 |
東本願寺 |
1602年(慶長7年)、教如に寺地を与え東本願寺を創立させる。 これにより本願寺教団は、西本願寺と東本願寺に分立。 |
長福丸が誕生 |
1602年(慶長7年)3月7日、養珠院(お万の方)が長福丸(のちの紀伊徳川家の祖徳川頼宣)を出産。 養珠院は、翌年8月10日にも鶴千代(のちの水戸徳川家の家祖徳川頼房)を出産している。 |
母の於大の方が死去 |
1602年(慶長7年)8月28日、伏見城で於大の方が亡くなり、江戸で火葬され伝通院に葬られた。 |
征夷大将軍 |
1603年(慶長8年)2月12日、征夷大将軍に任ぜられる。 |
二条城 |
1603年(慶長8年)、上洛時に滞在するための二条城を築城。 |
彦根城 |
1603年(慶長8年)、徳川四天王のひとり井伊直政の嫡男・直継(直勝)が近江国犬上郡に彦根城を築く。 |
後継者に秀忠 |
1605年(慶長10年)、将軍職を辞し、嫡子の秀忠を二代将軍とする。 |
高台寺 |
1606年(慶長11年)、東山に移り住んだ豊臣秀吉の正室・高台院(北政所・寧々)が秀吉の冥福を祈るため高台寺を建立。 |
圓徳院 (京都高台院屋敷) |
高台寺 (京都) |
英勝院が市姫を出産 |
1607年(慶長12年)1月1日、側室の英勝院が五女の市姫を出産。 |
駿府で大御所政治 |
1607年(慶長12年)、駿府城に移り大御所としての政治を開始。 |
湧水群で知られる柿田川公園は、北条氏康が築いた泉頭城跡。 泉頭城は、甲斐の武田信玄の侵攻に備えた城で、家康は駿府ではなく泉頭城を隠棲地とする計画を立てていたのだとか・・・ |
上賀茂神社が葵を進上 |
1610年(慶長15年)、京都の上賀茂神社が家康に葵を進上。 |
新田義重に鎮守府将軍を贈官 |
1611年(慶長16年)、先祖とする新田義重に鎮守府将軍、父の松平広忠に権大納言を贈官。 |
清洲越し |
名古屋城を築城し、1612年(慶長17年)から1616年(元和2年)にかけて清州城から名古屋城への移転が行われた。 |
大阪冬の陣 |
1614年(慶長19年)、方広寺の鐘銘事件をきっかけに豊臣氏に宣戦布告。 大坂城を包囲し、徳川に有利な形で和睦を成立させている。 |
大阪夏の陣 |
1615年(慶長20年)5月8日、豊臣秀頼と淀殿が自害し豊臣氏が滅亡。 |
法令発布 |
1615年(慶長20年)、諸大名統制のための全13ヶ条からなる「武家諸法度」と、天皇及び公家に対する関係を確立するための「禁中並公家諸法度」を発布。 |
死去 |
1616年(元和2年)4月17日、駿府城で死去(75歳)。 遺骸は久能山に葬られた。 |
東照大権現 |
1617年(元和3年)2月21日、東照大権現の神号が与えられる。 |
日光へ分霊 |
1617年(元和3年)4月8日、日光山に分霊。 |
金地院東照宮 |
1628年(寛永5年)、金地院の以心崇伝が家康の遺言により建立。 |
東照宮 |
1645年(正保2年)11月3日、宮号宣下により東照宮となる。 |
瀧山東照宮 |
1646年(正保3年)、瀧山寺境内に瀧山東照宮を建立。 |
鳳来山東照宮 |
1651年(慶安4年)、鳳来寺境内に鳳来山東照宮を建立。 |
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