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方広寺(ほうこうじ)は、豊臣秀吉創建の天台宗の寺院。 秀吉は、1567年(永禄10年)の松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺の大仏に代わる大仏の造立を発願。 1586年(天正14年)から大仏を安置する寺院の建立が開始され、1595年(文禄4年)に大仏殿が完成。 大仏殿には木造乾漆造りの大仏が安置された。 大仏を造立したのは、金峯山寺の蔵王堂の蔵王権現三体を造立した南都大仏師の宗貞・宗印兄弟。 東大寺の大仏より高い約19mの大仏だったが、翌年の慶長大地震で開眼供養が行なわれないまま大破。 その後、大仏は・・・ 秀吉の死後、豊臣秀頼が銅製の大仏鋳造を始めるが、1603年(慶長7年)に鋳造中の失火により大仏殿が焼失し、大仏造立は頓挫。 1608年(慶長13年)から徳川家康の勧めで二代目の大仏の鋳造が始まり、1612年(慶長17年)に大仏殿と大仏が完成。 翌年には「方広寺鐘銘事件」で知られる梵鐘も鋳造された。 しかし、二代目大仏も1662年(寛文2年)の寛文近江・若狭地震により損壊。 1664年(寛文4年)から三代目の大仏の造立が始められ、1667年(寛文7年)に木造大仏が完成。 初代大仏と同じ高さ約19mのものだったのだというが、1798年(寛政10年)に落雷で焼失。 三代目大仏の焼失後、四代目大仏が造立されたが、1973年(昭和48年)に失火により焼失している。 現在の本尊は廬舎那仏坐像。 |
方広寺の大仏は「京の大仏」と呼ばれ、三代目の大仏が焼失するまでは、東大寺の大仏・高徳院の鎌倉大仏とともに日本三大大仏の一つに数えられていたのだという。 |
奈良の大仏 (東大寺) |
鎌倉大仏 (高徳院) |
造立した大仏があっけなく大破してしまったことで、秀吉は信濃善光寺の善光寺如来を代わりに遷座させたのだという。 善光寺如来は、1558年(永禄元年)、上杉謙信との川中島の戦いで信濃善光寺の焼失をおそれた武田信玄によって甲斐国に建立された甲斐善光寺に移された。 1582年(天正10年)に織田信長による武田征伐(甲州征伐)によって武田氏が滅亡すると美濃岐阜城下へ移され、同年、本能寺で織田信長が討たれると(本能寺の変)・・・ 織田信雄が尾張清州城下へ、徳川家康が遠江浜松城下、甲斐善光寺へと移し、1597年(慶長2年)には豊臣秀吉が甲斐から方広寺に移した。 翌1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が病に倒れると、善光寺如来の祟りだと噂され、死の前日になって信濃に戻されたのだという。 秀吉の死の直前に善光寺如来が枕元に立ち、信濃に戻りたいと告げたのだとも伝えられている。 |
徳川家康が大坂の陣の口実とした「方広寺鐘銘事件」で知られる梵鐘。 |
耳塚には、朝鮮出兵で討ち取った兵の耳と鼻が埋葬されている。 |
秀吉は、大仏参詣の便をよくするため、五条大橋を六条坊門に移している。 |
秀吉を祀る豊国神社は、大仏殿の跡地に建てられている。 |
京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527−2 京阪電車「七条駅」下車 徒歩約8分 |
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