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豊国神社(とよくにじんじゃ)、豊臣秀吉を祀る神社で、秀吉が亡くなった翌年の1599年(慶長4年)に創建された。 秀吉の死後、高野山の木食応其が廟所として建立したことに始まるが、その頃は秀吉の死が伏せられていた時であったため大仏の鎮守社と呼ばれていたのだという。 秀吉の死が明らかになると遺言のとおり「新八幡社」と呼ばれるようになるが、朝廷から豊国大明神の神号が与えられたことで豊国神社となった。 秀吉の七回忌には8日間にわたる臨時祭が催され、その盛大さは「豊国祭礼図屏風」にも描かれたが・・・ 1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により取り壊されてしまう。 再興されたのは1868年(明治元年)。 現在の社殿は1880年(明治13年)に建立されたもの。 |
1600年(慶長5年)7月17日、徳川家康に宣戦布告した石田三成は、翌日、豊国神社を参拝している。 |
伏見城の戦い〜関ヶ原の戦いの前哨戦〜 鳥居元忠〜伏見城で討死にした三河武士の鑑〜 |
豊国神社の社殿は明治期のものだが、唐門は伏見城の遺構で国宝。 伏見城が廃された後、二条城に移築され、さらに以心崇伝が譲り受けて金地院に移築されていた。 |
方広寺は、豊臣秀吉が東大寺の大仏に代わる大仏を安置するために創建した寺。 豊国神社は方広寺の大仏殿跡に建てられている。 |
1616年(元和2年)4月17日、徳川家康が駿府城で死去すると遺言どおりに久能山に埋葬されるが・・・ その際、家康の神号をどうするかが問題となり、崇伝と天海が対立。 崇伝は「明神」を主張し、天海は「権現」を主張したが・・・ 「明神」は豊臣秀吉の豊国大明神と同じとなり、豊臣家と同じ末路になるという天海の主張が受け入れられ、徳川秀忠の裁定により「権現」となったのだという。 翌年、朝廷から「東照大権現」の神号が授けられている。 |
久能山東照宮 |
日光東照宮 |
久能山東照宮は、徳川家康を祀る東照宮の創祀。 死去から1年後、家康の遺骸は日光山に改葬され、日光東照宮が創建された。 |
京都市東山区大和大路正面茶屋町530 京阪電車「七条駅」下車 徒歩約8分 |
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