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金地院を再興した以心崇伝(いしんすうでん)の塔所。 後水尾天皇の勅額が掲げられ、左右両側には十六羅漢像が安置されている。 |
以心崇伝は、金地院に住したことから金地院崇伝とも呼ばれる。 1569年(永禄12年)、室町幕府の重臣・一色秀勝の次男として誕生。 1573年(元亀4年)、室町幕府が滅亡すると南禅寺の玄圃霊三に預けられ、靖叔徳林の法を嗣ぎ、更に醍醐寺の三宝院で学んだ。 摂津の福厳寺、鎌倉の禅興寺・建長寺に住持し、1605年(慶長10年)には南禅寺270世となり金地院に住する。 駿府城内に崇伝の宿所として金地院が建立されるなど、徳川家康に重用され、大坂の陣の端緒となった方広寺の鐘銘事件は崇伝の考えだったともいわれる。 僧でありながら幕府の基礎づくり大きな影響を及ぼした崇伝は、天海とともに「黒衣の宰相」といわれ、1625年(寛永3年)、後水尾天皇から円照本光国師の号を賜った。 1633年(寛永10年)1月20日、江戸城内の金地院で死去。 |
1616年(元和2年)4月17日、徳川家康が駿府城で死去し、遺言どおりに久能山に埋葬された。 その際に、家康の神号をどうするかが問題となり、崇伝と天海が対立。 崇伝は「明神」を主張し、天海は「権現」を主張したが・・・ 「明神」は豊臣秀吉の豊国大明神と同じとなり、豊臣家と同じ末路になるという天海の主張が受け入れられ、徳川秀忠の裁定により「権現」となったのだという。 翌年、朝廷から「東照大権現」の神号が授けられている。 |
久能山東照宮は、家康が埋葬された場所で、家康を祀る東照宮の創祀とされる。 |
日光東照宮の奥院には、改葬された家康の廟塔がある。 |
金地院東照宮は、崇伝が金地院に建立。 |
金地院は、京都五山・鎌倉五山の上に置かれる南禅寺の塔頭。 |
京都市左京区南禅寺福地町86−12 地下鉄東西線「蹴上駅」下車 徒歩10分 市バス「東天王町」下車 または 「南禅寺・永観堂道」下車 徒歩10分 |
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