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京都:方広寺の梵鐘
〜方広寺鐘銘事件〜

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方広寺梵鐘


 方広寺の梵鐘は、豊臣秀頼が1614年(慶長19年)に鋳造させたもの。

 東福寺南禅寺の長老で豊臣秀吉や秀頼の学僧だった文英清韓(ぶんえいせいかん)が銘文を起草した。

 徳川家康の了承の下で、前年に完成した大仏の開眼供養と大仏殿の堂供養を行なう予定だったが・・・

 片桐且元が供養の日時について家康と相談するため駿府城に出向くと、家康は大仏の開眼供養と大仏殿の堂供養を別にすることを提案。

 8月3日に供養を行うことが決まったが・・・

 後日、梵鐘の銘文に問題があるとして、大仏の開眼供養と大仏殿の堂供養の延期が命じられた。



方広寺梵鐘


 家康が問題としたのは、銘文中の「国家安康」(こっかあんこう)と「君臣豊楽」(くんしんほうらく)の文字。

 家康は・・・

 「国家安康」には「家康の名を2つに分断」し、

 「君臣豊楽」には「豊臣を君主として楽しむ」

 という下心が隠されていて、徳川家に対する呪いが込められているという指摘をしたのだという。

 家康は、金地院以心崇伝と画策して問題化させたとも言われている。










〜大坂の陣〜

 1614年(慶長19年)8月、鐘銘問題の弁明のため片桐且元が駿府城へ出向き、後日、淀殿の乳母を務めた大蔵卿局も駿府城に出向いている。

 9月6日、家康は、大蔵卿局と且元に徳川家と豊臣家の融和を図る方策を講じて江戸に赴いて弁明するように要求。

 さらに江戸在府の西国大名50人に対し、家康と秀忠に対して忠誠を誓うことの起請文をとったのだという。

 9月18日、大坂に戻った且元は、家康の提示された次のいずれかの案を採用することを進言。


秀頼を江戸に参勤させること

淀殿を人質として江戸に置くこと

国替に応じ大坂城を退去すること


 しかし、豊臣家が受け入れられる案ではなく、且元は秀頼と淀殿に激怒され、家康への内通を疑われてしまう。

 誅殺されそうになった且元は、大坂城を退去。

 10月1日、秀頼が且元を殺害しようとしたことを知った家康は、諸大名に出兵を命じ、10月11日に駿府城を出陣(大坂の陣)。

 豊臣方は敵対するつもりはないと弁明していたようだが、家康は受け入れなかったのだという。


 そして、1615年(慶長20年)5月8日、大坂城は落城し、秀頼と淀殿は自害。

 大蔵卿局も殉じている。

 片桐且元は、徳川方に参陣したが、大坂落城から間もない5月28日に死去している。



方広寺梵鐘





東福寺天得院
リンクボタン東福寺天得院

 銘文を起草した文英清韓は、方広寺の梵鐘が鋳造された年に東福寺の塔頭天得院の住持となったが、「方広寺鐘銘事件」により寺は取り壊されたのだという。



養源院
リンクボタン養源院

 方広寺の南には、大坂の陣で自害した淀殿が建てた養源院がある。

 妹の崇源院によって淀殿の供養が行われたのだという。










方広寺
リンクボタン方広寺

 方広寺は、豊臣秀吉が東大寺大仏に代わる大仏を安置するために創建した寺


京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527−2

京阪電車「七条駅」下車
徒歩約8分



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