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養源院(ようげんいん)は、1594年(文禄3年)、豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政と祖父・浅井久政らの追善のため、二十一回忌に建立した寺院。 開山は、比叡山の成伯法印。 養源院は長政の院号。 淀殿の妹・崇源院は、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の際、大坂城で自害した淀殿とその子・秀頼の供養を営んだのだという。 1619年(元和5年)、落雷により焼失するが、1621年(元和7年)に崇源院によって再興されている。 以後、徳川家の菩提所ともなり、歴代将軍の位牌が祀られている。 浄土真宗遣迎院派。 山号は南叡山。 本尊は阿弥陀如来。 |
淀殿(茶々)は、浅井長政とお市の方との間に生まれた三姉妹の長女。 長政は織田信長と対立し、1573年(天正元年)、小谷城で自害。 救い出されたお市の方と三姉妹は、信長に保護され岐阜城で暮らしていたが(諸説ある)・・・ 1582年(天正10年)、信長が本能寺で横死すると(本能寺の変)、お市の方が越前国北ノ庄の柴田勝家と再婚したことから北ノ庄城に移る。 しかし、翌年、勝家が賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、お市の方とともに北ノ庄城で自害。 三姉妹は秀吉に保護されたのだという。 のちに長女の茶々(淀殿)は秀吉の側室に、二女のお初(常高院)は京極高次に嫁ぎ、三女のお江(崇源院)は徳川秀忠に嫁いでいる。 |
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いでは、鳥居元忠をはじめとする多くの兵士が自刃。 本堂の廊下の天井は、自刃した兵士らの血で染まった廊下を使用したもので「血天井」として知られている。 |
伏見城は豊臣秀吉が築いたことにはじまる城で、のちに徳川家康の城となった。 1600年(慶長5年)8月の伏見城の戦いでは、鳥居元忠をはじめとする800人が討死した。 1621年(元和7年)、養源院を再興した崇源院は、伏見城の遺構を使用。 豊臣家が建てた寺を再建することには反対されたらしいが、伏見城の戦いで戦死した兵士の供養を条件に再建が叶ったのだという。 |
鳥居元忠〜伏見城で討死にした三河武士の鑑〜 |
養源院の北にある方広寺は、豊臣秀吉が東大寺の大仏に代わる大仏を安置するために創建した寺院。 梵鐘は、豊臣秀頼が鋳造させたもので、その銘文が大坂の陣が起こるきっかっけとなってしまった。 |
京都府京都市東山区三十三間堂廻り町656 JR京都駅から市内循環バス 「博物館三十三間堂前」下車。 |
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