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岐阜城(ぎふじょう)は、美濃国の稲葉山に築かれた山城。 鎌倉時代からある城で「源頼朝・頼家に仕えた二階堂行政が築いた砦が始まり」とする伝承がある。 その後、行政の娘婿の伊賀朝光→その子の伊賀光宗→光宗の弟の稲葉光資が支配したのだという・・・ 1539年(天文8年)、戦国大名の斎藤利政(道三)が本格的に築城し、道三・義龍・龍興の三代の居城だったが・・・ 1567年(永禄10年)、織田信長が奪取(稲葉山城の戦い)。 本拠地を小牧山から稲葉山へ移した信長は、稲葉山城の縄張りを破却して新たに岐阜城を築き、天下統一の拠点とした。 1576年(天正4年)、信長は近江国に築いた安土城に移り、岐阜城を嫡子の信忠に譲るが・・・ 1582年(天正10年)、本能寺で信長が明智光秀に討たれ信忠が二条殿で自刃すると(本能寺の変)、岐阜城は斎藤利堯が掌握。 さらに、豊臣秀吉が明智光秀を破ると(山崎の戦い)、利堯は織田信孝に降伏して岐阜城は信孝が相続した。 信忠の嫡子三法師の後見役となった信孝だったが・・・ 1583年(天正11年)、豊臣秀吉が柴田勝家を破ると(賤ヶ岳の戦い)、岐阜城は兄の信雄に包囲され、信孝は自刃。 池田恒興の嫡男・元助が城主となるが・・・ 1584年(天正12年)、 小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死すると、翌年、恒興の次男・池田輝政の居城となる。 その後の城主は、1591年(天正19年)に豊臣秀勝、1593年(文禄元年)に織田秀信(三法師)と続いたが・・・ 1600年(慶長5年)、石田三成が挙兵すると岐阜城は福島正則や池田輝政らに攻められて落城(岐阜城の戦い)。 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、1601年(慶長6年)、岐阜城の廃城を決定した。 |
信長が美濃攻略のために築いた小牧山城は、わずか4年で廃城となるが総石垣造の本格的な城だったのだという。 |
墨俣城は、信長の美濃攻略のため、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝わる城。 |
岐阜城に入った信長が掲げた政策は「天下布武」。 「天下布武」の目的は五畿内を平定し、足利義昭を将軍にして室町幕府を再興することだったのだという。 |
岐阜県岐阜市金華山天守閣18 |
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