|
二条殿は、南北朝期の公卿・二条良基の邸宅。 戦国期に織田信長が京都における宿所として改築した後、正親町天皇の皇太子・誠仁親王に譲渡され二条新御所と呼ばれていた。 1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変では、ここで信長の嫡男信忠が自刃した。 |
信忠は、甲州征伐後の5月14日、安土城に帰還するが、5月21日には、羽柴秀吉の援軍のため上洛して妙覚寺に滞在。 本能寺の変の前日には、本能寺の信長のもとを訪れ、酒を酌み交わしていたのだという。 翌朝、明智光秀が本能寺を襲ったことを知ると、本能寺へ駆け付けようとしたが、信長の自刃を知って二条殿に籠城して自刃したのだと伝えられている。 この戦いで二条殿は焼失した。 |
信長の最後の言葉という「是非に及ばず」。 一般的に、本能寺からの脱出は不能と判断し、「仕方がない」という諦めの意味で発した言葉だとされているが・・・ 実は、「是か非かはどうでもよい。戦え!」という命令だったという説も。 |
是非に及ばず〜織田信長最後の命令・本能寺の変〜 |
初花肩衝(はつはなかたつき)と新田肩衝(にったかたつき)は、織田信長が所持していた茶入。 信忠が譲り受けていたが、本能寺の変が起こり、二条殿から皇太子・誠仁親王とその子・和仁王(後の後陽成天皇)を脱出させたときに一緒に持ち出されたらしい。 その後、朝廷や徳川家と縁の深い誓願寺を経由して徳川家康が手に入れたのだという説がある。 |
家康が秀吉に贈った初花肩衝〜使者は石川数和:小牧・長久手の戦い〜 |
本能寺で自刃した信長と二条殿で自刃した信忠の遺骨は、阿弥陀寺に葬られたのだと伝えられている。 |
本能寺の変が起こった当時の本能寺は、現在地(寺町御池)ではなく、四条堀川の辺りにあったのだという。 跡地には本能寺跡の碑が建てられている。 |
本能寺の変で焼失した本能寺は、1589年(天正17年)に豊臣秀吉の命により寺町御池に移転。 |
本能寺の信長廟は、三男信孝の命によって建てられた。 |
大雲院は、信忠の菩提を弔うため二条殿(二条御所)の跡地に建てられた。 現在は祇園に移転している。 |
現在の二条城は徳川家康の築城だが、その前にも二条城と呼ばれたものが複数あって、信長の宿所だったという二条殿もその一つ。 |
甲州征伐後、信長は甲斐善光寺の善光寺如来を美濃国の岐阜城下に移した。 善光寺如来は、武田信玄が信濃善光寺から移した絶対秘仏の尊像。 信長の横死は善光寺如来の祟りと噂されたらしい。 |
織田信長は善光寺如来の祟られた?〜本能寺の変〜 |
京都市中京区両替町通御池上る東側 (旧龍池小学校前) |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|