家康が秀吉に贈った初花肩衝 |
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初花肩衝(はつはなかたつき)は、楊貴妃の油壺であったともいわれる茶入。 足利義政が所有し、初花と名付けたのだという。 肩衝とは、茶入のこと。 1569年(永禄12年)、織田信長に献上され、信長の茶会でも使用された。 その後、嫡男・信忠に譲られたが、1582年(天正10年)の本能寺の変後、徳川家康の家臣・松平親宅が手に入れたのだという。 翌年、家康に献上され、親宅は倉役・酒役など一切の諸役免除を受けた。 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家を破ると、家康は戦勝祝として秀吉へ贈っている。 使者となったのは石川数正だった。 秀吉は大坂城でたびたび茶会を開き、信長・信忠に伝えられた初花を使用し、織田政権の後継者であることを示したのだという。 秀吉の死後は宇喜多秀家が所持し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、家康のもとに戻った。 1615年(慶長20年)の大坂の陣後は、功績のあった結城秀康の嫡男で福井城主の松平忠直に与えられた。 1623年(元和9年)、忠直が改易されると忠直の嫡男・光永が所持し、1681年(天和元年)の越後騒動で光長が改易となると、姪の女二の宮が預かる。 1689年(元禄11年)、光長の養嗣子・長矩が津山藩主になると、その礼として江戸幕府に献上された。 現在は、徳川記念財団が所蔵。 |
家康が秀吉に初花肩衝を贈った翌年、小牧・長久手の戦いが起こる。 秀吉に初花肩衝を届けた石川数正は、家康の片腕として活躍した武将だが・・・ 小牧・長久手の戦い後の1585年(天正13年)11月13日、出奔して豊臣秀吉に臣従。 その理由は定かではないが、初花肩衝を届けたときに秀吉から何か言われた可能性も。 |
石川数正〜小牧・長久手の戦い後に出奔した家康の重臣〜 |
初花肩衝は、楢柴肩衝(ならしばかたつき)・新田肩衝(にったかたつき)とともに天下三肩衝と呼ばれた。 織田信長は、新田義貞が所持していたともいわれる新田肩衝も手に入れていたが、楢柴肩衝は手に入れる前に本能寺の変で横死してしまったのだという。 豊臣秀吉は全てを手に入れている。 秀吉の死後、楢柴肩衝は徳川家康が手に入れたが、現在は所在不明。 新田肩衝は徳川家康が所持した後、水戸徳川家の祖・徳川頼房に与えられ、現在は水戸市にある徳川ミュージアムが所蔵。 |
徳川家康が「松平」から「徳川」に苗字を変える際に尽力したのが誓願寺の泰翁だといわれる。 本能寺の変後、初花肩衝を手に入れた松平親宅の弟も誓願寺に住持していたのだという。 本能寺の変時、初花肩衝を所持していた織田信忠は妙覚寺に宿営していたが、軍事施設として優れていた二条殿(二条御所)に立て籠もった。 その際、皇太子の誠仁親王とその子・和仁王(後の後陽成天皇)を脱出させるが、初花肩衝も一緒に持ち出され、朝廷や徳川家と縁の深い誓願寺を経由して親宅が手に入れたという説がある。 |
元康から家康に改名・松平から徳川に改姓 |
平安時代に清少納言や和泉式部などの女性から信仰され「女人往生の寺」と呼ばれた。 紫式部の同僚女房として中宮彰子に仕えた和泉式部は、娘の死をきっかけに誓願寺で出家し、藤原道長から法成寺内に一庵を与えられたのだという。 その庵が誓願寺の南にある誠心院の前身。 誓願寺には、源義経に仕えた武蔵坊弁慶が愛したと伝わる弁慶石も置かれていた・・・ |
1583年(天正11年)6月20日、千利休は博多の豪商 ・島井宗室に手紙を送っている。 その中には、徳川家康が羽柴秀吉に初花肩衝を贈ったことが記されている。 |
1583年(天正11年)、大坂に本拠を移した羽柴秀吉は大坂城を築き始める。 千利休書状には秀吉の近況も書かれている。 |
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