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福井城は、越前国北ノ庄にあった城。 1601年(慶長6年)、徳川家康の次男で初代福井藩主となった結城秀康によって築城が開始され、家康の命により全国の大名が参じ6年の歳月をかけて完成したのだという。 築城当初の名は北ノ庄城。 以後、越前松平家の城として栄えた。 築城された地は、織田信長の宿老・柴田勝家が築いた北ノ庄城の跡地。 勝家の北ノ庄城を改築したものなのか、新たに別の城として築かれたのかは解釈が分かれている。 |
柴田勝家の北ノ庄城は、安土城にも匹敵する巨大な城だったのだという。 賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家は、この城で正室のお市の方とともに自害している。 |
天守台の福の井は、1601年(慶長6年)の北ノ庄城の築城が始まった頃からある井戸。 北ノ庄は、1624年(寛永元年)、三代藩主の松平忠昌が「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「福居」に改名。 その後、さらに「福井」と改名されたのだという。 改名は、「福の井」に由来しているという説も・・・ |
築城当時は、四層五階の高さ37m天守閣が建っていたが、1669年(寛文9年)に焼失。 その後、財政難などの理由から再建されることはなかった。 |
結城秀康は、家康の側室・お万の方が産んだ双子のうちの一人。 幼名は於義伊(於義丸)。 お万の方は、正妻の築山殿から側室として認められていなかっため、岡崎城の外で秀康を産んだのだという。 家康にも認知されずに育てられるが、異母兄の松平信康のとりなしで、3歳の時に初めて対面したのだと伝えられている。 1579年(天正7年)、甲斐の武田氏と内通していたとして、築山殿が殺害され、信康が切腹させられた。 そのため、家康の後継者は次男の於義伊となるはずだったが・・・ 1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い後、人質として豊臣秀吉の養子となり、元服後に秀康に改名。 1590年(天正18年)、家康が関東移封となり江戸城に入ると、下総国の結城晴朝の姪・江戸鶴子と結婚し、婿養子となって結城氏を継いだ。 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、北ノ庄を与えられ、母のお万の方も同行。 1604年(慶長9年)には、松平氏に復したものと考えられている。 1607年(慶長12年)、北ノ庄で死去(享年34)。 秀康の死後、お万の方は出家し、1619年(元和5年)、北ノ庄で死去(享年72)。 |
〜信康が切腹させられ、秀康が養子に出されて後継者となった秀忠〜 |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 長勝院・お万の方〜結城秀康を産んだ徳川家康の側室〜 西郷局・お愛の方〜徳川秀忠を産んだ徳川家康の側室〜 大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜 |
結城氏は、源頼朝に仕えた結城朝光を祖とする。 秀康が松平に服した後、結城家の家督は秀康の五男・直基が継いでいる。 称名寺は朝光の菩提寺。 |
福井県福井市大手3 JR福井駅から徒歩5分 |
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