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1575年(天正3年)4月4日、岡崎城の松平信康のもとで町奉行を務めていた大岡弥四郎(大賀弥四郎)が甲斐の武田勝頼に内通していたとして鋸挽きの刑に処せられた。 |
※ | 弥四郎の名字は「大賀」ともいわれるが、近年では「大岡」とする説が有力。 |
※ | 処刑された時期には諸説ある。 |
大岡弥四郎は、岡崎郊外で土に埋められて竹鋸で引かれたのだという。 |
1574年(天正3年)6月、武田勝頼は遠江の高天神城を落として東遠江を平定し、翌年4月には三河へと進軍。 その目的は岡崎城を制圧することにあったのだといわれる。 松平信康の家臣・大岡弥四郎の調略に成功した勝頼は、岡崎城を開門させて占領する計画だったのだという。 謀反の参画者には、松平新右衛門・小谷甚左衛門・倉地平左衛門・山田重英などがいたようだが・・・ 山田重英が決意を翻して信康に通報したことで謀反が発覚。 そのため、勝頼は長篠城を奪還する作戦に切り替えたのだとか。 そして、勝頼は長篠の戦いで大敗を喫することとなる。 |
岡崎城は、徳川家康が浜松城に移ったことにより、嫡男の松平信康に譲られていた。 |
長篠城は武田方の城だったが、武田信玄の死後、徳川方の城となった。 家康は、1575年(天正3年)2月、武田氏を離反した奥平貞昌を城主としている。 |
〜主を裏切る者もいれば、主のために命を懸ける者も〜 |
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松平新右衛門は大樹寺で自害、倉地平左衛門は逃亡するが大岡清勝に討たれ、小谷甚左衛門は甲斐へ逃亡。 謀反計画を通報した山田重英は、大岡弥四郎の陰謀を事前に食い止めた功により加増を受けたのだという。 |
弥四郎の謀反には、徳川家康の正室・築山殿が参画していたとも伝えられ、一説によると・・・ 岡崎城の家臣団が武田に寝返り、信康を新国守にしようと企てていたとも考えられるのだという。 後に、築山殿は殺害され、信康は切腹させられるが、その理由は、謀反にあったのかもしれない。 |
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愛知県新城市長篠 JR飯田線「三河東郷駅」から徒歩10分 |
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