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武田氏は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏。 武田氏初代は、1180年(治承4年)、源頼朝や木曽義仲らとともに平家打倒の挙兵をした武田信義。 武田信玄は、甲斐武田家第19代当主。 本拠は、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)。 1541年(天文10年)、父の信虎に反旗を翻して国外に追放。 上杉謙信との川中島の戦いなどの激しい戦いを繰り返す一方で、「甲州法度之次第」を定めて国内の強化を図った。 信濃・上野・駿河に侵攻して領国化し、1572年(元亀3年)には、遠江に侵攻して三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河に進軍。 越前朝倉氏・近江浅井氏・本願寺などと手を組んで、勢力を伸ばしつつあった織田信長包囲網を作り上げたが・・・ 翌年、三河国の野田城を包囲中の陣中で病に倒れ、4月12日、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷(いなだに)で死去(53歳)。 甲府の土屋昌続邸に埋葬され、3年後の1576年(天正4年)4月16日、菩提寺の恵林寺に葬られたのだという。 武田不動尊を祀る明王殿の裏に墓所がある。 |
武田神社は、信玄を祭神とする社で、躑躅ヶ崎館の跡地に建てられている。 |
積翠寺は、躑躅ヶ崎館の詰城として築かれた要害山城の麓にある寺。 武田神社の北北東にあって、武田信玄の産湯の井戸が残されている。 |
甲府市岩窪にある信玄の墓は、1573年(元亀4年)に死去した信玄を埋葬した地とされ火葬塚とも呼ばれる。 |
長篠城址 (新城市) |
鳳来寺 (新城市) |
長篠城と鳳来寺は、三河国で病に倒れた信玄が療養していたと伝えられる地。 |
1541年(天文10年)、信玄に追放された信虎は、駿河国の今川義元もとに追放されて出家。 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで義元が討死すると、上洛して将軍・足利義輝に奉公したのだという。 1574年(天正2年)、六男・武田信廉の居城・高遠城で死去した。 大泉寺は信虎が創建した寺で、信玄の誕生伝説が残されている。 |
諏訪大社は信濃国一之宮。 諏訪湖を挟んで上社と下社からなる神社。 信玄は「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を掲げ、諏訪法性兜で出陣したのだと伝えられる。 |
諏訪頼重は、信濃国の戦国大名で諏訪大社の大祝(おおほうり)。 1541年(天文10年)、諏訪は信玄に制圧され、降伏した頼重は東光寺に幽閉された後に自刃している。 その後、頼重の娘・諏訪御料人は信玄の側室となり、信玄の跡を継いだ勝頼を産んでいる。 |
川中島古戦場(八幡原史跡公園)は、1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いで信玄が本陣を敷いた場所。 武田の本陣に切込んだ上杉謙信は、信玄に三太刀斬りつけたが、信玄はそれを軍配団扇で返したのだという。 後で確認すると軍配団扇には七つの傷が残されていたのだとか・・・。 |
謙信との戦いで信濃善光寺の焼失をおそれた信玄は、本尊(善光寺如来)と寺宝などの全てを甲斐国に移した。 |
信玄によって甲斐国に創建されたのが甲斐善光寺。 |
富士山本宮浅間大社は、浅間神社の総本社。 1569年(永禄12年)、駿河国へ攻め入った信玄は、本殿前に「枝垂れ桜」を植えたのだという(現在の桜は二代目)。 翌1570年(元亀元年)には、北条氏康との戦いを前に参詣し、願状を奉納した。 |
北口本宮冨士浅間神社の東宮本殿は、1223年(貞応2年)、鎌倉幕府二代執権の北条義時による創建。 現在の建物は1561年(永禄4年)に信玄が再建したもの。 |
冨士御室浅間神社は、富士山最古の神社といわれている。 冨士御室浅間神社には、1557年(弘治3年)と1566年(永禄9年)に信玄が長女で北条氏政室となった黄梅院の安産・無病延命を祈願して奉納された願文が残されている。 北条氏政は後北条氏の四代目。 祈願成就の際には鎌倉往還の船津の関所を廃止する旨が記され、富士信仰の街道であった鎌倉往還の便宜を図るものと考えられている。 1565年(永禄8年)に息女の病気平癒を祈願したものも残されており、北口本宮冨士浅間神社にはその写しが伝えられている。 この息女とは、織田信忠と婚約した松姫(信松院)だといわれている。 1566年(永禄9年)に冨士御室浅間神社で行われた「大般若経真読会」は、信玄の嫡男義信の室となった今川義元息女の病気平癒祈願だったと考えられるのだという。 |
1572年(元亀3年)、遠江に侵攻した信玄は、徳川家康の浜松城を素通り。 家康は信玄を追撃して三方ヶ原で戦ったが大敗。 |
三方ヶ原の戦いは、家康が最大の敗北を喫した合戦といわれ、浜松城に戻った家康は自分の姿を描かせて、その絵を大切にし自らを戒めたのだという。 岡崎城に置かれている「しかみ像」は、家康が描かせた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を基にして製作された石像。 ただ、近年の研究では・・・ 「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、紀州徳川家から尾張徳川家に伝わった家康の御影とされている。 |
徳川家康の「しかみ像」〜実は家康の御影だった〜 |
1572年(元亀3年)、三方ヶ原で徳川家康を破った信玄は三河国へ侵攻するが、野田城を包囲中の陣中で病に倒れてしまう。 長篠城で療養していたが、甲斐国へ撤退。 4月12日、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷で死去した。 |
自身の死を3年間は秘匿すること。 遺骸を諏訪湖に沈めること。 勝頼は信勝継承までの後見を務め、越後の上杉謙信を頼ること。 山県昌景は瀬田に風林火山の旗を立てよ。 などと言い残したのだという。 |
恵林寺(えりんじ)は、1330年(元徳2年)に二階堂貞藤(道蘊)が創建。 開山は夢窓疎石で、臨済宗円覚寺派の寺院として開かれた寺。 1541年(天文10年)、信玄が臨済宗妙心寺派の明叔慶浚・鳳栖玄梁を招いて再興した。 |
武田不動尊は、信玄が自らの姿を模刻させたというもの。 |
1573年(元亀4年)に死去した信玄は、甲府に葬られ、3年後、恵林寺に葬られた。 |
武田八幡宮は甲斐武田家初代当主の武田信義が元服した神社。 |
石和八幡宮は、斐武田家二代当主の武田信光が鶴岡八幡宮を勧請した社。 |
東光寺は、新羅三郎義光が諸堂を建立して興国院と称したのを始まりと伝えられる寺。 鎌倉建長寺開山の蘭渓道隆が入山し禅宗寺院(臨済宗)として再興したことでも知られる。 戦国期には信玄が再興し、建長寺派から妙心寺派の寺院となった。 |
武田義信は、信玄の嫡男だったが、廃嫡され東光寺で自刃した(30歳・病死とも伝えられる。) |
武田信義から始まる甲斐武田氏は、1575年(天正3年)に信玄の子勝頼が長篠の戦いで大敗したことで衰退。 1582年(天正10年)、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐で滅亡した。 景徳院は、武田勝頼終焉の地に徳川家康が建立させた寺。 |
滅亡の前年、勝頼は甲府の躑躅ヶ崎館から自らが築いた新府城に本拠を移した。 未完の城だったといわれているが、武田家の甲州流築城技術の集大成の城郭だったらしい。 |
法泉寺は、武田氏七代当主・武田信武と二十代当主・武田勝頼(信玄の四男)の菩提寺。 織田・徳川連合軍による甲州征伐で、天目山で自害した勝頼の歯髪が葬られたと伝えられている。 首級牛蒡の伝説 |
甲府五山は、信玄が躑躅ヶ崎館の城下に置いた臨済宗妙心寺派の寺院。 |
長禅寺 |
能成寺 |
長禅寺は、信玄の母・大井夫人の菩提寺。 能成寺は、武田氏十五代当主・武田信守の菩提寺。 |
東光寺 |
円光院 |
東光寺は、信玄の嫡男・義信の菩提寺。 円光院は、信玄の正室・三条夫人の菩提寺。 |
雲峰寺 (甲州市) |
菅田天神社 (甲州市) |
雲峰寺には、信玄が用いた「風林火山」の軍旗をはじめとする武田家の重宝が伝えられている。 菅田天神社は、武田氏が相伝した源氏重代の鎧で国宝の「楯無」を所蔵する。 |
甲州征伐で武田氏が滅亡すると、甲斐国は織田信長が領したが、本能寺の変で信長が横死すると・・・ 武田氏の旧領をめぐる天正壬午の乱が起こる。 乱後、甲斐国は徳川家康が領することになり、武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の城・躑躅ヶ崎館が本拠とされた。 家康が関東に移封された後も豊臣氏が本拠としたが、関ヶ原の戦い後、甲府城が築かれて、躑躅ヶ崎館と詰城の要害山城は廃城となった。 |
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