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円光院(えんこういん)は、武田信玄の継室・三条夫人の菩提寺。 甲斐源氏の三代当主・源清光(逸見清光)が八代郡小石和郷(現在の笛吹市)に創建した清光寺を始まるとする。 その後、成就院と改められ、1560年(永禄3年)、信玄が躑躅ヶ崎館の麓に移転し、甲府五山のひとつに列した。 1570年(元亀元年)に死去した信玄の継室・三条夫人が葬られると、その法号に因んで円光院となった。 正式名は瑞巖山円光護持禅院。 本尊は釈迦如来。 臨済宗妙心寺派。 |
清光寺があった八代郡は、武田氏二代当主・武田信光が石和館を構えて本拠とした地。 そのため、十八代当主・武田信虎が1519年(永正16年)に甲府の躑躅ヶ崎館に移るまでは、甲斐国統治の中心地だった。 石和八幡宮は、信光が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して甲斐源氏の氏神とした神社。 |
三条夫人(三条の方)は、1521年(大永元年)に左大臣・三条公頼の次女として誕生。 1536年(天文5年)、武田晴信(信玄)の継室に迎えられ、三男二女をもうけた。 ただ、嫡男の義信は謀反の疑いをかけられ廃嫡、長女の黄梅院は北条氏政に嫁ぐがのちに離縁され病死、次男の信親は盲目、三男の信之は夭折している。 1570年(元亀元年)7月28日死去(享年50)。 信玄にとっては良き妻ではなかったかのように伝えられるが・・・ 三条夫人の妹は本願寺十一世・顕如の妻。 信玄が越前朝倉氏・近江浅井氏・石山本願寺などと手を組んで織田信長包囲網を構築することができたのは、三条夫人のおかげなのかもしれない。 1572年(元亀3年)、反信長勢力を味方に付けた信玄は、遠江国に侵攻。 一言坂の戦い・二俣城の戦い・三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、三河国に進軍するが、翌年、その途上で病となり亡くなっている。 |
※ | 信玄の正室は、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主・上杉朝興の娘。 |
※ | 次女の見性院は穴山梅雪室となっている。 |
信玄への謀反を疑われた義信は東光寺に幽閉され、1567年(永禄10年)10月19日、自刃した(病死とも)。 義信が東光寺に幽閉された際、恵林寺の快川紹喜・東光寺の藍田恵青・長禅寺の春国光新は、信玄と義信の和解を試みていたのだというが・・・ |
1573年(元亀4年)、三河国へ侵攻して病に倒れた信玄は、長篠城で療養した後、甲斐国へ撤退。 4月12日、甲府へ帰る途中の信濃国伊那谷で死去。 三条夫人の墓所の近くにあった土屋昌続邸に埋葬された(信玄火葬塚)。 3年後、菩提寺の恵林寺に改葬されている(信玄の墓)。 |
木造刀八毘沙門天と勝軍地蔵坐像は、武田信玄が信仰した尊像で躑躅ヶ崎館の毘沙門堂にあったもの。 京都の七条大仏師康清の作と伝わる。 信玄の菩提寺恵林寺の武田不動尊も康清の作。 |
山梨県甲府市岩窪町500 JR甲府駅北口からバス「護国神社入口」下車、徒歩約10分 |
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