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本丸御殿は、越前松平家の松平斉典が1848年(嘉永元年)に建てたもので川越城唯一の遺構。 |
河越城築城 |
1454年(享徳3年)、鎌倉公方の足利成氏が、関東管領の上杉憲忠を謀殺するという事件が発生。 憲忠の後継者となった房顕援護のため、室町幕府は今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた(享徳の乱)。 翌1455年(康正元年)、範忠が成氏を破って鎌倉に入ると、成氏は古河に敗走し「古河公方」と称するようになる。 河越城(川越城)は、古河公方の成氏に対抗するため、1457年(長禄元年)、扇谷上杉家の上杉持朝が、家宰の太田道真と子の道灌に命じて築かせた城と伝えられている。 |
太田道灌暗殺 |
享徳の乱は、太田道灌の働きによって収束したが・・・ 1486年(文明18年)7月26日、道灌の才能を恐れた主君上杉定正(扇谷上杉)は、道灌を糟屋館におびき出して謀殺。 道灌は、死の間際に「当方滅亡」と言い残したのだという。 自分が死ねば扇谷に未来はないという予言だった。 |
英勝寺 (鎌倉) |
太田道灌の首塚 (鎌倉) |
鎌倉の英勝寺は太田道灌の旧蹟に建てられた寺。 裏山に道灌の首塚がある。 |
太田道灌の墓 (大慈寺) |
太田道灌の墓 (洞昌院) |
謀殺された太田道灌の首は大慈寺に葬られ、胴は洞昌院に葬られたのだという。 |
上杉家の内紛 |
道灌謀殺後の扇谷上杉家は、山内上杉家と対立して長享の乱へと発展。 1497年(明応6年)、山内上杉家は、扇谷上杉家の河越城に対抗して、旧河越館に上戸陣を築き、両家は7年間も睨み合っていたのだという。 |
上杉氏は、1252年(建長4年)、六代将軍宗尊親王が鎌倉に下向する際、親王に従って下向した上杉重房を祖とする。 木造上杉重房像は、鎌倉の明月院所有で国の重要文化財。 |
後北条氏の城に。 |
上杉家の内紛に乗じて関東に進出してきたのが、伊豆国の韮山城を居城としていた北条早雲。 1495年(明応4年)、扇谷上杉家の家臣大森藤頼の小田原城を奪取した早雲は、1516年(永正13年)には三浦氏の新井城を落として相模国全域を平定。 1537年(天文6年)、早雲の家督を継いだ氏綱が武蔵国に進出して扇谷上杉家の河越城を奪取。 |
韮山城址 (伊豆の国市) |
八幡山古郭 (小田原城) |
河越夜戦 |
1545年(天文14年)、河越城の奪回をはかる扇谷上杉家の上杉朝定は、古河公方足利晴氏、山内上杉家の上杉憲政と連合して河越城を包囲するが・・・ 北条綱成が籠城で抵抗し、翌年、救援にかけつけた北条氏康との夜襲で連合軍を撃退した(河越夜戦)。 この戦いで扇谷上杉家は滅亡、山内上杉家の上杉憲政は鶴岡八幡宮の神前で越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)に家督を譲っている。 |
川越藩の藩庁に。 |
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐で、河越城を守っていた大道寺政繁が降伏し、前田利家の軍勢が河越城に入城。 徳川家康が関東に入ると、川越藩が立てられ、酒井重忠が藩主となり藩庁は川越城に置かれた。 以後、川越には有力譜代大名や親藩の越前松平家などが入封した。 |
川越氷川神社 |
三芳野神社 |
川越氷川神社は、太田道灌や歴代川越藩主に崇敬された社。 三芳野神社は、川越城内の天神曲輪にあった社で、わらべ唄「通りゃんせ」発祥の地。 |
喜多院 |
仙波東照宮 |
喜多院は、慈恵大師を祀る寺で、庫裡・書院・客殿は江戸城から移築された建物。 仙波東照宮は、徳川家康を祭神とする社。 |
川越城の本丸御殿は、廃城後、武道練磨の場となり、初雁武徳殿と呼ばれていた。 |
川越市郭町2−13−1 東武東上線・JR川越線「川越駅東口」から、西武新宿線「本川越駅」から東武バス「上尾駅西口行き」、「埼玉医大行き」又は「川越運動公園行き」で「市役所前」下車、徒歩約5分 東武東上線・JR川越線「川越駅西口」及び西武新宿線「本川越駅」からイーグルバス「小江戸巡回バス」で「本丸御殿」下車 |
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