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1247年(宝治元年)、北条時頼との戦いによって三浦泰村一族が源頼朝の法華堂で自刃したことにより、三浦氏は滅亡した(宝治合戦)。 しかし、三浦一族の佐原盛時は時頼方についたため、本流に代わって盛時が三浦氏を名乗るようになる。以後、新井城を拠点としていたと考えられている。 室町時代の三浦氏は、扇谷上杉家と繋がりを持ち、時高の時代には、扇谷上杉家から三浦義同(道寸)が養子となった(道寸の父高救も時高の養子となっていたとも伝えられている。)。 時高に実子が誕生すると道寸は三浦を追い出されるが、小田原城主大森氏頼の支援を受けて挙兵し、時高父子を滅ぼし新井城に入った。 その後、子の荒次郎(義意)に家督を譲り、自分は岡崎城に入る。 北条早雲(後北条氏)が相模に勢力を伸ばしてくると、道寸の岡崎城が落とされ、弟の道香が守る住吉城に退いた。 1512年(永正9年)、住吉城が落とされると道寸は新井城に逃れるが、1516年(永正13年)、早雲の攻撃に耐えきれずこの城で自刃した。 |
新井城は、三方を海で囲まれ、大手の引橋を渡らないと攻め込むことは不可能な天然の要害であった。 北条軍も攻めあぐみ、三浦軍はわずかな手勢で3年もの間もちこたえたという。 油壺という名は、新井城で自刃して果てた将兵の血で湾一面が血潮で染まり、まるで油を流したような状況であったことから、そう呼ばれるようになったという。 |
逗子の海宝院には、北条早雲が新井城を攻める際に陣鐘として使用したとされる梵鐘が残されている。 |
鎌倉の玉縄城は、1512年(永正9年)、北条早雲によって、新井城の三浦道寸攻略のために築城された。 |
住吉神社 |
岡崎城址 |
海前寺の首塚 |
逗子の海前寺の首塚は、三浦道寸と北条早雲との戦いで討死した武将を葬った場所とされる。 |
逗子の延命寺では、三浦道寸と北条早雲との戦いで道寸の弟道香が自刃したと伝えられている。 |
三浦道寸とともに自刃した子・義意の首は小田原の井神の森に飛来し、居神神社として祀られたという。 |
京急「三崎口」駅よりバス「油壺」下車 |
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