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鎌倉公方足利持氏が永享の乱によって自刃した後、鎌倉は将軍足利義教の支配下となり、義教は自らの子を鎌倉公方に据えようとする。 しかし、関東管領上杉憲実らの反対で実現はせず、送られてきた子は宇都宮公方と呼ばれていたそうである。 1440年(永享12年)、関東が将軍義教の支配下に入ることに不満をもった結城氏朝は、下野国の日光山に潜んでいた持氏の遺児春王と安王を担ぎ出し、幕府に対して反乱を起こすが(結城合戦)、義教によって鎮圧され春王と安王は殺された。 ただ、永寿王(のちの成氏)だけは未だ幼児であったということで処分がくだされずにいた。 |
結城合戦で捕えられた春王(13歳)と安王(11歳)は、京都へ護送される途中の関ヶ原で処刑された。 |
1441年(嘉吉元年)、将軍義教が赤松満祐に暗殺されるという事件が発生(嘉吉の変)。 結城合戦で処分が下されずにいた成氏は、将軍義教の死によって命が助けられ、 1449年(宝徳元年)、鎌倉に下向し鎌倉公方となった。 鎌倉公方の復活は義教の死がなかったら、あり得ないものだったのかもしれない。 こうして鎌倉公方が復活したが、関東管領となった憲忠は、足利持氏の時代に関東管領を務めた憲実の子であったため、成氏を支持する旧持氏派と上杉憲忠を支持する反成氏派の対立を生んだ(参考:永享の乱)。 1450年(宝徳2年)、山内上杉家の長尾景仲と扇谷上杉家の太田資清によって成氏が襲撃される事件が起こる。 成氏は江ノ島に逃れた後反撃し、長尾軍と太田軍を退けた(江の島合戦)。 この事件は、室町幕府管領畠山持国の調停によって和睦がなったが、長尾景仲と太田資清への処分はなかった。 1452年(享徳元年)、管領が畠山持国から細川勝元に代わると、関東は再び幕府の統治下に置かれることとなる。 その後も鎌倉公方と関東管領との対立は続き、1454年(享徳3年)、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に招き謀殺した。 山内上杉家は、憲忠の後継者を弟房顕とし、幕府は房顕援護のために今川範忠を起用して成氏討伐に向かわせた(享徳の乱の勃発)。 翌1455年(康正元年)、範忠は成氏を破って鎌倉に入った。 成氏は古河に敗走し「古河公方」と称するようになる。 以後、関東は利根川を挟んで古河公方と上杉氏とが対立し、30年に亘る争いが続く。 そして、成氏が鎌倉から離れたことによって、源頼朝以来、武家の街として栄えてきた鎌倉も政治の中心から離れることとなる。 |
1458年(長禄2年)、八代将軍足利義政は、成氏に対抗するため、異母兄の政知を鎌倉公方として派遣するが、関東の武士には受け入れられなかった。 そのため、政知は鎌倉に入ることができず伊豆に留まることとなる(堀越公方)。 1497年(文明11年)、幕府と成氏は、関東を成氏が、伊豆を政知が治めることで和睦している。 |
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