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山内上杉家

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山内管領屋敷


 山内上杉家は、関東管領を務めた上杉憲顕にはじまる家。

 鎌倉の山ノ内に屋敷があったことから「山内上杉」と呼ばれる。

 鎌倉幕府を滅亡させた足利尊氏は、京都に室町幕府を開き、鎌倉には嫡男義詮を置いて関東を統治させていたが、足利家中で権勢を得ていた憲顕が執事となり義詮を補佐していた。

 1349年(正平4年/貞和5年)、義詮に代わり尊氏の四男基氏が鎌倉に入って鎌倉公方となると、観応の擾乱で一時失脚していた憲顕が、1362年(正平17年/貞治元年)に越後守護職に復活し、翌年には関東管領として鎌倉公方基氏を補佐した。

 以後、関東管領の地位は上杉家(山内・犬懸扇谷・宅間)が世襲する。


山内上杉家の屋敷はJR横須賀線沿いの明月院の入口付近から山ノ内道に沿ってあったという。









上杉重房坐像
リンクボタン木造上杉重房像
(国重文)

 上杉氏は、1252年(建長4年)、第六代将軍宗尊親王の鎌倉下向に従ってきた上杉重房に始まる。

 重房は宗尊親王が鎌倉を追放された後も鎌倉に留まり、武士として鎌倉幕府に仕えていた。

 重房は足利氏と婚姻関係を結び、重房の孫清子は、足利貞氏に嫁ぎ、尊氏直義を生んでいる。





〜観応の擾乱後復活した上杉憲顕〜

 山内上杉家初代の憲顕は、足利尊氏の嫡子義詮が鎌倉を統治していた頃から関東執事として政務を執っていた。

 義詮に代わって基氏が鎌倉に派遣され鎌倉公方となると再び関東執事を務めている。

 観応の擾乱で一時失脚するが、1363年(正平18年/貞治2年)に関東執事となった。

 このころから関東執事は「関東管領」と呼ばれるようになる。

 憲顕の弟憲藤は犬懸上杉家の祖、義弟重能は宅間上杉家の祖。





リンクボタン上杉禅秀の乱
(足利持氏と上杉氏憲(禅秀)の対立)

 1416年(応永23年)、犬懸上杉家の氏憲(禅秀)は、鎌倉公方足利持氏と対立し反乱を起こした(上杉禅秀の乱)。
 翌年、禅秀は鶴岡八幡宮僧坊で自刃している。
 この乱で犬懸上杉家は没落し、関東管領職は山内上杉家が独占していくこととなる。



リンクボタン永享の乱
(足利持氏と上杉憲実の対立)

 1438年(永享10年)、鎌倉公方足利持氏は、関東管領の上杉憲実と対立し、憲実を討とうとするが、六代将軍足利義教が憲実を援護したため持氏は敗れ、翌年、永安寺で自刃した(永享の乱)。



リンクボタン享徳の乱
(足利成氏と上杉憲忠の対立)

 永享の乱後、長らく鎌倉公方が不在となっていたが、1449年(宝徳元年)に持氏の遺児成氏鎌倉公方に就任すると、成氏と関東管領の憲忠の対立が激化した。
 1453年(享徳3年)、成氏は憲忠を暗殺するが、幕府は山内上杉家を援護するため今川範忠を派遣した。範忠に鎌倉を追われた成氏は、古河に逃れ「古河公方」と称した(享徳の乱)。

 この乱はその後30年も続く。

 その間の1475年(文明7年)には、山内上杉家の家宰だった長尾景春が反乱を起こし、扇谷上杉家の家宰太田道灌によって鎮圧されている(その後も景春は数十年にわたって反乱を繰り返している。)。



◎成氏との和睦

 長尾景春が反乱に危機感をもった関東管領の顕定は、1478年(文明10年)に成氏と和睦。

 成氏に対抗するため堀越公方を派遣していた幕府も1483年(文明14年)に成氏と和睦し、享徳の乱が終結した。

 これによって成氏鎌倉公方としての地位が承認される形となった。



◎長享の乱
(山内上杉家と扇谷上杉家の対立)

 長尾景春の乱を鎮圧した太田道灌の指揮によって扇谷上杉家が山内上杉家と並ぶ勢力を持つようになると、1487年(長享元年)には、山内上杉家の顕定と扇谷上杉家の定正が関東管領職をめぐっての争いを始め、その戦いは1505年(永正2年)まで続けられている。

 その間、勢力を伸ばしてきたのが1495年(明応4年)に小田原城を奪い、相模国に進出してきた北条早雲(後北条氏)。


川越城本丸御殿
リンクボタン河越城跡
(川越市)
河越館跡
リンクボタン河越館跡
(川越市)

 河越城は太田道灌が築いた城。現在では江戸時代の本丸御殿が唯一の遺構。

 河越館は鎌倉時代の有力御家人だった河越氏の館跡。

 1497年(明応6年)、山内上杉家は、扇谷上杉家河越城に対抗して、旧河越館に上戸陣を築き、両家は7年間も睨み合っていたのだという。



◎長尾為景の乱と山内上杉家の内紛

 1506年(永正3年)になると越後守護代の長尾為景が越後守護上杉房能に対して反乱を起こし、上杉定実を擁立した。

 これに対し関東管領の顕定は1509年(永正6年)に為景を攻め、一時為景を佐渡へ逃亡させるが、翌1510年(永正7年)には反攻に転じた為景によって討たれた。

 その後関東管領職には顕実が就任するが、山内上杉家内部での家督争いが起こり、古河公方家を巻き込んで争いを続ける中、相模国は北条早雲によって平定される。



◎上杉憲政と上杉謙信

 その後、関東管領となった憲政は、後北条氏に対抗するため扇谷上杉家と手を結ぶが、1546年(天文15年)の河越夜戦で北条氏康に敗れると勢力を失い、越後の長尾景虎を頼って1561年(永禄4年)、その家督と関東管領職を景虎に譲った。

 長尾景虎とは、のちの上杉謙信

 その後、憲政は隠居。1579年(天正7年)、謙信亡き後に起こった家督争いの和睦交渉へ向かう途中で、上杉景勝の兵に討たれている。









=山内上杉家=

上杉重房

頼重

憲房

憲顕

憲方

憲定

憲基

憲実

憲忠

房顕

顕定

顕実

憲房

憲寛

憲政

政虎
上杉謙信



上杉重房と関東管領上杉氏(okadoのブログ)





〜関東管領となった上杉謙信〜

上杉謙信
リンクボタン上杉謙信
上杉謙信は、越後国の守護代長尾為景の子。


 1561年(永禄4年)、上杉憲政は、謙信に上杉家の家督を相続させ、関東管領職を譲り渡した。

 古例に従い鶴岡八幡宮で拝賀の儀が執り行われている。 









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