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観応の擾乱
足利直義の最期

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観応の擾乱とは・・・

 室町幕府で、軍事を任せれていた高師直と政務を任せれていた足利尊氏の弟直義の対立がきっかけとなった動乱を「観応の擾乱」と呼んでいる。

 当初は2者の対立であったが、次第に「尊氏・義詮」対「直義」となり全国的な争いとなった。





〜直義の出家〜

 1349年(正平4年/貞和5年)、直義尊氏に進言して高師直を執事の座から引きずりおろした。

 一方、不満を持つ高師直・師泰兄弟は直義を討とうとするが、直義は尊氏邸に逃れた。

 高兄弟は尊氏邸を包囲したが、直義が出家することで収まっている(当時、天龍寺にいた夢窓疎石が仲介したともいわれている。)。

 これによって、鎌倉にいた義詮(尊氏の嫡子)が呼び戻され、直義に代わって政務を担当することになる。

 鎌倉には義詮の代わりに基氏(尊氏の三男)が入った(初代鎌倉公方)。





〜直冬の反乱〜

 足利直冬は、尊氏の子でありながら尊氏から認められている子ではなかった。

 哀れに思った直義が養子に迎えている。

 直冬は、京で直義が出家させられた頃は備後国を治めていた。

 事件を知ると直義に味方するため上洛しようとするが、幕府追討軍に敗れ九州に敗走した。

 しかし、直冬は、その後、中国・九州で勢力を拡大していく。





〜高兄弟の最期〜

 1350年(正平5年/観応元年)、直冬が反乱を起こすと直義はその機に乗じて京を抜け出て、高師直・師泰兄弟を討つべく軍勢を集めた。

 鎌倉では、高師冬と上杉憲顕が争い、師冬は基氏を擁して戦ったが、憲顕に基氏を奪われ敗北している。

 翌1351年(正平6年/観応2年)、直義が京を攻めたため、義詮(尊氏の嫡子)は敗走した。

 当時、尊氏は直冬の勢力を重く考え備前に出陣中であった。

 すぐに尊氏は京を目指すが、直義軍に敗れ、高兄弟を出家させることで直義と和睦。

 しかし、高兄弟は、京へ護送中、直義によって殺されている。


 鎌倉の高師冬と上杉憲顕は、ともに基氏を補佐していた関東執事(のちの関東管領)。


リンクボタン中先代の乱と足利尊氏と清水寺に奉納した願文









〜直義の最期〜

 その後、一時的には平穏となったが、尊氏直義の和睦はすぐに破綻した。

 1351年(正平6年/観応2年)11月、直義は鎌倉に入り、九州では直冬が勢力を拡大したことで、尊氏と直義の対立が激しくなる。

 尊氏は、12月、直義討伐のため出陣し、直義を降伏させた。

 直義は、浄妙寺の西北にあった延福寺に幽閉され、翌1252年(正平7年/文和元年)2月26日急逝した。

 尊氏が毒殺したとの説がある。 



延福寺跡
リンクボタン延福寺跡
(浄妙寺)





足利公方屋敷跡
リンクボタン鎌倉公方屋敷跡碑

 鎌倉幕府滅亡後の鎌倉には、足利尊氏の嫡子義詮が入り、関東を治めていた。

 1349年(正平4年/貞和5年)、義詮は鎌倉を離れ、代わって基氏が鎌倉に入り、鎌倉公方と呼ばれるようになる。



〜最後の得宗・北条時行〜

 1252年(正平7年)2月26日の直義の死によって観応の擾乱は終結するが・・・

 閏2月には、新田義興が基氏を破って一時鎌倉を占拠(武蔵野合戦)。

 この戦いには北条時行も合流していたのだという。

 時行は北条高時の遺児。

 武蔵野合戦は、時行にとって中先代の乱杉本城の戦いに続いて三度目の鎌倉奪還となったが、翌年、捕らえられ、龍ノ口で処刑されている。



北条得宗家の滅亡〜最後の得宗北条時行〜(okadoのブログ)









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